財団法人・世界人権問題研究センター『研究紀要』

第2号(1997年3月)収録
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在日朝鮮人・台湾人の参政権「停止」条項の成立(続)

 

――在日朝鮮人参政権問題の歴史的検討(二)――

水 野 直 樹


在日朝鮮人・台湾人の参政権「停止」条項の成立――在日朝鮮人参政権問題の歴史的検討(一)――」を読む

はじめに
一 戸籍条項」の成立(補足)
 (1)  衆議院議員選挙法改正の経過(補足)
 (2)  GHQと「戸籍条項」
 (3)  治安対策としての「戸籍条項」
二 各種選挙法における参政権停止
 (1) 植民地出身議員の資格消滅
 (2) 地方公共団体選挙法における参政権停止
 (3) 参議院議員選挙法における参政権停止
三 朝鮮人・台湾人参政権に関する政府見解
おわりに



はじめに

 本誌前号に掲載された拙稿「在日朝鮮人・台湾人参政権「停止」条項の成立――在日朝鮮人参政権問題の歴史的検討(一)――」(以下「前稿」と呼ぶ)に続いて、本稿では日本敗戦後の衆議院議員選挙法改正によって旧植民地出身者(在日朝鮮人・台湾人)の選挙権・被選挙権(本稿ではこれらを「参政権」とする)が「停止」された後、各種の選挙法でも「停止」されることになり、結局朝鮮人・台湾人の参政権が戦後日本で完全に否定されるにいたった歴史的経緯を検討する。
 まず最初に衆議院議員選挙法における在日朝鮮人・台湾人参政権の「停止」条項(「戸籍条項」)の成立経過を論じた前稿への補足と訂正をし、この問題に対するGHQ/SCAP(連合国最高司令官総司令部)の立場などを検討・考察した上で、衆議院議員選挙法以外の各種選挙法においても「停止」条項が設けられた経過を述べる。そして最後にこの問題について日本政府が示した見解のいくつかを検討することにしたい。
 

一 「戸籍条項」の成立(補足)

(1)衆議院議員選挙法改正の経過(補足)

 まず、前稿を発表した後、新たに見出した資料と関係者のインタビューにもとづいて、前稿への補足をしておきたい。特に、前稿執筆の際に見逃していた「入江誠一郎日記」が重要である。入江は当時、内務省地方局長として衆議院議員選挙法改正案作成の実務責任者であったので、その日記(1)には改正案作成の経過がかなり詳しく記されている。また、入江局長の下で地方局行政課長として改正案づくりをした鈴木俊一氏(前東京都知事)に話を聞くことができた。鈴木氏のインタビュー(2)も当時の事情の一端を明らかにするものとして紹介することにしたい。
 「入江日記」の記述に沿いながら、改正案作成過程で在日朝鮮人・台湾人の参政権問題がどのように扱われたかを見ると、次のとおりである。
 「入江日記」は、選挙法改正が日程に上った当初から、内務省が朝鮮人の選挙権・被選挙権の問題を意識していたことを示している。一九四五年九月一八日の日記には、次のように書かれている。

  「本日ノ閣議ニテ、内閣総理大臣ヨリ、特ニ、選挙法ヲ根本的ニ改正スル必要アル旨ノ発言アリタル由デアル。午後局長会議、局ニ帰ッテ各課長ニ報告スル。次官ノトコロデ、府県ノ部制問題ヲ中心トシテ地方ノ機構改革問題、地方総監府ノ廃止問題及朝鮮人ノ選挙権ニ関スル問題ヲ協議ス」(『偲ぶ』二五頁)。

 それまで政府は戦中・戦後の人口移動に合わせての定数改正を行なうことは決めていたが、選挙法の根本的な改正に関しては決定していなかったので、この日の閣議での東久邇総理大臣の発言が選挙法改正作業の開始を告げるものであった。当日、内務次官と地方局長(おそらく行政課長らも同席したであろう)との間で「朝鮮人ノ選挙権ニ関スル問題」が協議されていることは、特に重要である。これが日本在住の朝鮮人だけの問題なのか、朝鮮半島における参政権問題に関わる問題なのかは明確ではないが、選挙法改正に当たって朝鮮人(および台湾人)の参政権が問題となることを内務省官僚は最初からはっきりと意識していたのである。
  選挙法の根本的改正を行なう方針が閣議で決定され、選挙制度審議会が設置されたのは九月二八日であるが、一〇月五日に東久邇内閣が総辞職し、新たに幣原内閣が誕生すると、選挙法改正は内務省を中心として進められることになった。坂千秋次官、入江誠一郎地方局長、鈴木俊一行政課長、小林與三次事務官らのチームが実務を担当した。「入江日記」は以後、連日選挙法改正に関わる記述で埋められているといってよい。ところが、閣議で「衆議院議員選挙制度改正要綱」が決定される一〇月二三日までの「入江日記」には朝鮮人・台湾人の参政権に関する記述は見られない。日本在住の朝鮮人・台湾人は日本国籍を維持するとの政府見解からすれば、参政権を持つとすることにそれほど大きな疑問が出なかったのかもしれない。
  「改正要綱」の閣議決定の後、一〇月二六日に衆議院の議会制度調査特別委員会(3)が開かれてから、朝鮮人・台湾人の参政権問題に関する記述が「入江日記」に現われる。これより先、一〇月一九日にも入江と坂次官は衆議院の特別委員会に出席して「選挙法ノ改正案ノ説明」を行なっている。その時にも「各衆議院議員ヨリ中々活発ナル議論」があり、入江は「議会ニ上程セラレタ場合ノ困難ガ予想セラレル」と感じていた(『偲ぶ』三四頁)。二六日の委員会では、前稿(四七頁)で紹介したとおり、清瀬一郎らから朝鮮人・台湾人に選挙権・被選挙権を認めることに対する強硬な反対論が出たが、入江は日記に「中々議員側ヨリ議論ガ多イ」と書いているだけである(『偲ぶ』三五頁)。
  ところが、翌二七日の日記には、「次官カラ命令ガアリ、至急『朝鮮人ノ選挙権及選挙公営ノ問題』ニ就テ研究セヨト云ハレル」(『偲ぶ』三六頁)と書かれている。前日の衆議院特別委員会での議員側の反対を無視し得ず、次官が朝鮮人などの参政権問題を再検討するよう入江らに指示したのである。二八日に地方局でこの問題を協議し、二九日には大臣、次官も交えて検討したことが「入江日記」からわかる(『偲ぶ』三六頁)。その結論は記されていないが、閣議決定した「改正要綱」のとおり参政権を認めるというものだったと推測される。というのは、前稿(五〇―五一頁)にも書いたように、一一月七日に作成された内務省の最終案(第三次案)には「戸籍条項」が見られないからである。議会側の反対論に出合って内務省は朝鮮人・台湾人の参政権問題を再検討したが、結論は変更しなかったと考えられる。
  一一月初旬、入江らは選挙法の条文を整える作業を急いだ。一一月七日の「入江日記」は次のように記している。
  「本日警察部長会議。午前一一時ヨリ大臣ノトコロデ選挙法ニ関スル未決定ノ問題二、三項目ニツイテ会議ガアリ、之ヲ以テ選挙法関係ノ全体ノ方針ガ決定スル。依ッテ、午後次官ノトコロデ、課長、事務官ト共ニ選挙法ノ法文ノ整理ヲナス」(『偲ぶ』三八頁)。   続いて、八日には「法制局ニ審議ノタメ選挙法律案ヲ提出スル準備ヲナシ、午後条文ヲ法制局ニ送ル」と書かれており(『偲ぶ』三九頁)、これによって内務省の手による法案作成は終了したことになる。
  大きな変化は一一月八日に起こったことが「入江日記」からうかがえる。同日の日記には前引の記述に続いて次のように記されている。

   「外務省ノ曽根君ヨリ、マ司令部ニ於テ『朝鮮人及台湾人ニ就テ選挙権ヲ停止スル』トノ意向ヲ聞キ大臣ノトコロデ協議」(『偲ぶ』三九頁)。

  この文章は、入江がマッカーサー司令部に行ったところ、「外務省ノ曽根」に出会い、朝鮮人・台湾人の選挙権を停止するとの意見を外務省が持っていることを聞いた、というように読むこともできるが、素直に読めば、朝鮮人・台湾人の選挙権を停止する意向をマッカーサー司令部が持っているという話を「外務省ノ曽根」から聞き、急ぎ大臣らと協議した、という意味に取るのが妥当であろう。とすれば、朝鮮人・台湾人参政権の停止はGHQの意向によるものだったことになる。「入江日記」にはこの後、法制局での審査のことは書かれているが、朝鮮人・台湾人の参政権に関わる記述が見られないので、事実がどうであったか明確ではない。八日の記述の意味を考えるためには、GHQがこの問題にどのように関わったか、あるいは関わらなかったかを検討しておかねばならない。

(2)GHQと「戸籍条項」

  前稿(六三頁)では、GHQが在日朝鮮人・台湾人の参政権を「停止」した衆議院議員選挙法の改正過程に直接介入することはなかった、と書いた。「入江日記」の記述はGHQの関与を示しているが、筆者の見解は前稿と変わらない。その理由は、次の三点である。
  まず第一に、GHQあるいは米国政府が在日朝鮮人の処遇、法的地位に関していかなる認識を持ち、どのような政策をたてていたのか、という問題である。
  対日戦の期間に米国政府の各機関が立案した対日占領政策文書からは、僅かだが在日朝鮮人の法的地位・処遇について検討がなされたことがうかがえるが、戦争終結後の一一月あるいは一二月まで明確にそれを規定した文書はGHQに伝達されなかった。在日朝鮮人に対する米国の最初の公式的な政策文書は、一九四五年一一月一日に米国の国務・陸軍・海軍省が決定して、同日付けで連合国最高司令官に通知した「初期の基本的指令」である。ここでは次のように在日朝鮮人・台湾人の地位が規定されている(4)

   「貴官は、中国人たる台湾人及び朝鮮人を、軍事上の安全の許す限り解放国民として取り扱う。彼らは、この指令に使用されている『日本人』という語には含まれないが、彼らは、日本臣民であったのであり、必要の場合には、貴官によって敵国人として取り扱われることができる」。

 在日朝鮮人・台湾人を基本的には「解放国民」として扱うこと、ただし場合によっては「敵国人」すなわち日本人として扱ってもよいとする米国の政策が、日本政府によって読み変えられ、在日朝鮮人・台湾人をある場合には外国人、ある場合には日本人とみなして、その権利を制限する根拠となり、GHQもそのような日本政府の政策を追認することになったことは、よく知られている。在日朝鮮人・台湾人の法的地位に関するこの二重規定は、同年一二月八日付けで米国統合参謀本部がマッカーサー最高司令官に送った指令「在日難民」でも繰り返されている。(5)
  「入江日記」の記述のように、GHQが衆議院議員選挙法改正に際して朝鮮人・台湾人の参政権を停止せよとの指令ないし指示を日本政府に与えたとすれば、「初期の基本的指令」にもとづくものということになるが、それは考えにくい。確かに朝鮮人・台湾人は「解放国民」であって、「日本人」とみなすべきではないという点を重視すれば、日本国籍者として扱うべきではなく、したがって参政権も付与されない、ということになるが、この指令にもとづいてGHQが積極的に選挙法改正に介入する可能性は小さかったと思われる。指令自体、公式には一一月八日にGHQに伝達されたとされる。(6)それより何日か前にGHQ側が指令を知り得たとしても、法的問題を検討した上で一一月八日までに日本政府に何らかの指示を出すことができたとは考えられない。ただし、日本政府側がこの指令を知って、朝鮮人・台湾人の参政権を「停止」する根拠として利用したことは可能性としてあり得る。
  GHQが介入したとは考えにくい理由の第二は、朝鮮人・台湾人の参政権停止を指示したGHQ/SCAPの文書が、これまでのところ発見されていないことである。GHQ/SCAPが日本政府に指令を出す場合には文書によるのが原則だったが、国立国会図書館憲政資料室所蔵のGHQ/SCAP文書類のマイクロフィッシュなどにはこの問題に関する文書が見られない。ないと断言することもできないが、多くの研究者が関心を抱く問題であるにもかかわらず、これまで発見されていないのは指令自体が存在しないことを示すと考えてもよい。
  第三に、もし参政権の停止がGHQの指令もしくは意向によるものであったなら、日本政府は「戸籍条項」を設ける第一の理由にそれを掲げたはずである。しかし、枢密院や議会での政府側説明やその後の文献にもGHQの指令、意向に言及したものはない。
  第四に、GHQ/SCAP側は在日朝鮮人・台湾人の参政権停止を自らの政策によるものと考えていなかった節がある。衆議院議員選挙法改正から二年以上後のことだが、一九四八年二月二七日にGHQの民政局(GS)代表が記者会見で行なった発言が問題となったことがある。この記者会見は民政局代表が「近代的デモクラシー」に関する解説をすることを目的に開かれたものだが、記者から「朝鮮人にも選挙権が認められるべきではないか」との質問が出たのに対し、民政局代表は次のように答えている。「朝鮮人たちが政府に対して責任を持ち、納税を怠らず、法律を遵守するならば選挙権は認められるべきである」(7)。後述するように、GHQ側のこの発言は日本政府にとって驚きであり、日本政府はこれを否定しようと動いた。
  「戸籍条項」の成立から相当時間が経過しているとはいえ、またGHQの一部局とはいえ、民政局代表が朝鮮人に選挙権が与えられるべきだとする発言を行なったことは重要である。もし参政権の停止がGHQの指令によるものとするなら、自らの政策に明白に矛盾するような発言を民政局員がするとは考えられないからである。この発言は、参政権の停止がGHQの指令・意向によるものではないことを示すものと見てよい。
  GHQが一九四五年秋の衆議院議員選挙法改正の内容の検討を始めたのは、法案が議会を通過し、公布された後の一二月二〇日頃からである。二〇日にGHQは選挙法の英訳を提出せよと日本政府に要求し、二三日にそれが提出された後、大急ぎで検討を行ない、翌年一月一二日に総選挙の実施を三月一五日以降とするように日本政府に指令を出す形で改正選挙法を承認した。GHQのGS(民政局)が中心となって行なった選挙法の検討では、賛成意見、反対意見に分かれ、反対派の方が多かったとされるが、かなり詳しく選挙法を分析・検討したにもかかわらず朝鮮人・台湾人の参政権停止に関しては議論されなかったようである。(8)GHQは、日本政府の措置を追認したといわねばならない。
  以上のようないくつかの理由から、「入江日記」に記されている「マ司令部」の「意向」は疑わしいものと考えられる。では、この記述はどのように解釈すればよいのだろうか。
  「外務省ノ曽根」とは誰のことかをまず検討しておかねばならない。「入江日記」の一〇月三日にも「外務省ヘ人事問題ニテ曽根君ヲ訪問スル」(『偲ぶ』二九頁)という記述が見られるが、実は「曽根」というのは一〇月一日まで外務省政務局第一課長を務めていた曽禰益のことである。(9)曽禰は一〇月一日付けで終戦連絡中央事務局(終連)総務局長(のち政治部長)に任命されており、入江が「外務省」と書いているのは正確ではない。しかし、連合国側との連絡・調整を任務とする終連そのものが九月までは外務省の外局であり、その職員も主に外務省の職員が任命されていたことを考えると、入江が「外務省ノ曽根」と書いたのも無理はない。むしろ曽禰は外務省の立場に立っていたと考えるのが正しいと思われる。
  では曽禰は入江に何を言ったのであろうか。それは朝鮮人・台湾人参政権問題に関する外務省の見解だったのではないか、と筆者は推測している。
  前稿(五三頁)で、「戸籍条項」の成立に直接つながったと考えられる文書「朝鮮人、台湾人等ノ選挙権問題」(国会図書館憲政資料室所蔵佐藤達夫文書)は、内閣法制局が作成した文書ではないかと書いたが、これは訂正しなければならない。文書の表題横に記されている「(昭和二〇、一一、五、條二)」のうち「條二」の意味がわからなかったため、法制局第二部ではないかと考えてしまったが、この「條二」は一九二〇・三〇年代の外務省で条約局第二課を表わす略号として使われていたことに、その後気づいた。敗戦直後も条約局第二課(渉外法律事項、国際行政に関する事務担当)を指すものだったようである。とすれば、この文書は朝鮮人・台湾人の参政権問題に関して外務省の見解を示すために条約局が作成した文書だったことになる。もちろん選挙権・被選挙権の問題に関してまで外務省が口出ししたかどうか疑問が残るが、在日朝鮮人・台湾人の国籍問題の延長線上で参政権問題についても条約局第二課が検討をしていたことは充分考えられる。
  曽禰が入江に伝えたのは、この条約局第二課作成の文書にもとづく外務省の見解ではなかっただろうか。文書そのものを渡したかどうかはわからないが、文書の大まかな内容を伝えたのではないか。曽禰はその際、GHQも外務省の見解に同意していることを示唆したのではないだろうか。そして入江はそれを「マ司令部」の「意向」と受け取ったのではないか。これらはあくまで推測でしかないが、可能性としてあり得ることである。(10)
 このように考えるなら、一一月八日以降の法案の変化を理解しやすくなる。前稿では、内務省の法案になかった「戸籍条項」が内閣法制局での審査段階で付け加えられたことについて、法制局側の立てた論理に内務省が説得されたと推測したが、内務省は外務省とその背後にいるGHQの圧力――後者は実際には存在しないが――を感じたからこそ、修正に同意したと思われる。入江らが最終案を法制局に送った後、大臣を交えて協議し直さねばならなかったのは、それを示している。あるいは、後述するように、内務省官僚の間でも朝鮮人を治安対策の対象としてとらえる見方が強まっていたところに、「マ司令部」の「意向」という話を聞いたことが、それまでの立場を変えさせるきっかけになった、といえるかもしれない。
  「戸籍条項」が法案付則に追加されたのは、前稿で書いたとおり、法制局の審査段階であったことは間違いない。これを誰が考え出したかについては前稿では不明としていたが、鈴木俊一氏の証言によれば、法制局側であったという。鈴木氏は、「戸籍条項」を考えたのは誰かとの筆者の質問に、「法制局ですよ。そういうことをやるのは、まさに法制局の領域なんです。一定のものをどういう形で表現するか。朝鮮人・台湾人といわないで、戸籍法という言葉を使ってね、誤魔化したような表現で。そういったところが法制局の真骨頂なんだと思います」と語り、「名案だなと思った」とも述べている。
  しかし、法制局の審査でどのような議論がなされたかについて鈴木氏は明言を避けた。内務省案が法制局の審査で変更されるということは相当重大なことなので、当然議論がされたはずだが、旧内務省および法制局の文書が公開されていない現段階ではその内容を知ることはできない。(11)
  前稿を執筆する際、筆者は内閣法制局が当初から「改正要綱」に反対する立場に立っていたと考えたが、実はそれも誤りであった。「改正要綱」が閣議決定される前に内務省側は法制局とこれに関する打ち合わせをしており(『偲ぶ』三三頁)、そこでは朝鮮人・台湾人への参政権付与が問題にならなかったことから見て、法制局も当初は参政権を認めることに異議がなかったと思われる。しかし、法制局は外務省から前述の文書を示された(12)後は、それにもとづいて内務省側と協議したと考えられる。内務省側が同文書の論理を受け入れたことは、その後の議会で内務大臣が同じ論理で法案説明をしていることや、法案作成に携わった小林與三次が選挙法を解説する論文で同様の説明をしている(13)ことからわかる。
  なお鈴木氏は、内務省は当初から朝鮮人・台湾人に参政権を認める考えを持っていなかったが、それを条文でどう表現するかだけが問題だった、と筆者に語った。しかし、改正案作成の経過から見ても、また議会や外務省から反対論が出されたことから考えても、内務省が最終案をまとめるまで参政権を認める方針であったことは明らかであり、この点に関する鈴木氏の証言は疑問である。

(3)治安対策としての「戸籍条項」

  在日朝鮮人・台湾人にも選挙権・被選挙権があるとする閣議決定がなされたにもかかわらず、二〇日ほどの間にそれが逆転したのは、議会や各官庁の関係者の間にが朝鮮人などを治安対策の対象と見る意識が強く、それが法的論理を押しのけた結果であることは、前稿ですでに指摘した(五四頁、五六頁、六一頁)。清瀬一郎の意見書、外務省条約局第二課作成の文書――前稿では法制局作成としたが、前述のように誤りであった――、枢密院における審議内容などをその根拠としてあげたが、それを補強する資料をいくつか付け加えておきたい。
 第一に、「入江日記」の記述である。選挙法案作成を担当していた内務省地方局長入江は、法案づくりで多忙な毎日を過ごしていたことが日記からわかるが、内務省案の作成が最終段階を迎えた一一月七日には警察部長会議に出席している(『偲ぶ』三八頁)。その内容はわからないが、当時常磐や北海道の炭鉱で広がっていた中国人・朝鮮人労働者の争議に関わる問題が報告されたであろう。同日の日記には、次のような記述もある。

  「本日堀切内務大臣ニ対シ、朝鮮人ガ危害ヲ加エヨウトシタ事件ガ起ル」(『偲ぶ』三九頁)。

 この事件は大事に至らなかった、あるいは単なる風聞に過ぎなかったので、新聞などにも報道されておらず、鈴木氏も記憶にないと語っているが、入江は「危険な朝鮮人」という見方を強めたかもしれない。先述のように、翌八日内務省は最終案をまとめ、法制局に送ったが、それには「戸籍条項」がなかったので、入江の認識が直ちに法案に反映したわけではない。しかしながら、入江ら内務省官僚が抱く治安政策の対象としての朝鮮人像が大きくなっていたことも否定できない。(14)
 第二の資料は、幣原内閣の書記官長を務めていた次田大三郎の日記である。次田は敗戦前には内務省地方局長・警保局長・次官、内閣法制局長官などを歴任した内務官僚で、貴族院議員にもなっている。堀切内務大臣と同期の入省だった次田は、「司令部との間でゴタゴタ」が起こらないうちに「早く改正案を作れ」と内務省側に要請したという。(15)書記官長時代の次田の日記には朝鮮人・台湾人の参政権問題に関わる記述はないが、一〇月一六日の日記には、天皇と閣僚との雑談で「司法省ニ朝鮮人ガ多数押シ掛ケテ来テ、朴烈ヲ釈放セヨト談判シタ話」が出たと記されている。(16)これは雑談以上のものではなかったようだが、内閣の雰囲気はうかがえる。それにもまして注目される記述が一一月に現れる。一三日の日記は、選挙法案を閣議で正式に決定したことを記した後、次のように書かれている(17)

  「ハルビンから来た岡崎といふ人に面会して北満と北鮮〔ママ〕の話を聴き、酸鼻の極である。外務次官と内務省管理局長に紹介しておいた」。

 敗戦前後の満洲や朝鮮半島北部で日本人が悲惨な境遇に置かれているとの話を聞いた次田は、翌一四日には実際に内務省管理局(植民地であった朝鮮・台湾関係の事務を担当)に連絡をとった(18)

  「九時半、内務省管理局長に来て貰って、北朝鮮の事情について注意を引き起し、岡崎氏に聴て呉れといった。朝鮮人台湾人の法律的地位について研究を促した」。
 内閣書記官長が朝鮮半島北部での日本人の状況と「朝鮮人台湾人の法律的地位」の問題を関連づけていることは重要である。選挙法案確定後のことであり、「法律的地位」というのが参政権問題を含むものかどうか日記の記述からは明確でないが、次田が「戸籍条項」を追加した選挙法案を念頭に置いていたことは容易に想像できる。朝鮮人だけでなく台湾人の「法律的地位」をも研究せよと指示していることは、それを示すといってよい。内閣においても治安対策の観点と朝鮮人・台湾人の参政権問題・法的地位問題が直接結びついていたことを確認できるのである。
  なお、議会側で朝鮮人・台湾人への参政権付与に強硬に反対した清瀬一郎が作成・配布した意見書「内地在住の台湾人及朝鮮人の選挙権、被選挙権に就いて」に関しては、前稿(四七―五〇頁)で詳しく紹介・分析したが、これについても補足しておきたい。清瀬は意見書で、第一に朝鮮人・台湾人は日本の降伏文書調印の時点で日本国籍を離れたものと解釈すべきこと、第二に特に朝鮮人に参政権を認めると一〇人くらいの議員が生まれ、彼らが「天皇制の廃絶」を叫ぶ恐れがあり、「寒心に堪えざる」事態が生じること、の二つの理由から反対したのであるが、その反対論は主に後者の理由によるものであった。彼が議会での審議において国籍問題に関わる自らの見解に固執しない姿勢を示したことは、前稿(五九頁)でも指摘した。清瀬は、一九四六年初めに発行された英文雑誌“Contemporary Japan”第一五巻第一-四合併号に‘ The New Election Law ’(「新しい選挙法」)と題する論文を書いている。その中で清瀬は、新選挙法が暫定的な性格を持つものであるとし、その理由として四点をあげている。そのうちの一つは朝鮮人・台湾人の参政権に関わる問題である(19)

 「日本と連合国との関係はいまだ最終的な形態で解決していない。理論的にいえば、朝鮮人・台湾人を今も日本人とみなさねばならないが、実際にはこれは変則的なものであろう。それゆえ、新選挙法は暫定的に(as a temporary measure)これら朝鮮人・台湾人の選挙権および被選挙権は停止され、彼らは選挙人名簿から除かれることを規定している」。

 新たな選挙法を連合国側に解説・説明するに当たって、清瀬は自らの見解より政府の見解を優先したとも考えられるが、意見書で政府とは異なる解釈をすべきだと論じた朝鮮人・台湾人の国籍問題に関して政府見解に従っていることに注意すべきである。清瀬は、国籍についての解釈ではなく、参政権の否定そのものを重視していたことがわかる。結局、清瀬の反対論の根拠は第二の理由――政治的・治安対策的な理由――にあったのである。
  以上のようないくつかの資料からも、衆議院議員選挙法改正に当たって在日朝鮮人・台湾人の選挙権・被選挙権が「停止」されたのは、政府・議会内に強かった朝鮮人・台湾人に対する警戒心、彼らを主に治安対策の対象として見る思考方式によるところが大きかったことを再確認することができる。
 

二 各種選挙法における参政権停止

(1)植民地出身議員の資格消滅

 日本在住の朝鮮人・台湾人の参政権が衆議院議員選挙法の改正で「停止」されたことは、決定的な意味を持つものであり、「戸籍条項」はその後制定された各種の選挙法にも受け継がれることになった。以下、朝鮮人・台湾人の参政権に関わるいくつかの選挙法の制定・改正の経過を見ておこう。
 一九四六年四月一〇日の総選挙により三九人の女性を含む四六四人の議員(他に欠員二)が選ばれた後、五月一六日に第九〇回帝国議会(臨時会)が召集された。開会は六月二〇日にずれこみ、四回にわたって会期延長が行われ、一一四日に及ぶ長い会期の臨時議会となった。この第九〇回議会は、「大日本帝国憲法」改正案を審議・可決した「憲法議会」として知られるが、朝鮮人・台湾人の参政権に関わる二つの法律を可決している。
 第一は、敗戦直前の議会で成立した朝鮮・台湾からの衆議院議員および貴族院議員選出を定めた法律を改正したことであり、第二は、地方制度の改正において地方議会の議員および長の選挙権・被選挙権が、衆議院議員選挙法と同じように朝鮮人・台湾人については「停止」されたことである。
 貴族院には、一九四五年三月に改正された貴族院令(昭和二〇年勅令第一九三号)で朝鮮および台湾から一〇人以内の議員を任命(勅任)することとなっていたため、第九〇回議会開会の時点で、朝鮮人六人(朴忠重陽〔朴重陽〕、韓相龍、伊東致昊〔尹致昊〕、金田明〔金明濬〕、野田鐘憲〔宋鐘憲〕、李埼鎔)、台湾人三人(緑野竹二郎〔簡明山〕、林獻堂、許丙)の計九人の植民地出身議員がいた(20)。彼らが実際に議場に姿を見せていたかどうかはわからない。ほとんどの議員は朝鮮あるいは台湾にいたと思われるが、少なくとも開会時の議員名簿に名前がある(21)
 開会から五日後の六月二五日、政府は貴族院令の一部を改正する勅令案を貴族院に提出した。それは、樺太の多額納税者議員および朝鮮・台湾からの勅任議員に関する規定を削除するためのものであった。総理大臣吉田茂は、「「ポツダム」宣言受諾後、朝鮮、台湾及ビ樺太ニ於テ統治権ヲ行使シ得ザル実際ニ鑑ミマシテ、是等ノ規定ヲ削除スルヲ適当ト考ヘタ次第デアリマス」と説明している(22)。これを審議する特別委員会でも政府説明がそのまま承認され、六月二九日の本会議で勅令案は可決された(23)
 そして、七月九日の本会議では、朝鮮、台湾から任命されていた九人の議員の資格が四日付けで消滅したことが議長から報告された(24)。この議会で審議された新憲法が施行されれば、貴族院が廃止され参議院が成立することになっていたので、朝鮮人、台湾人議員がいなくなるのは時間の問題だったが、政府・議会は「統治権」を行使し得ない地域から選ばれた議員を少しの間でもその地位にとどめて置くことを避けようにしたのである(参議院議員選挙は翌四七年四月に実施され、五月に第一回特別国会が召集された。)
 衆議院については、昭和二〇年法律第三四号(衆議院議員選挙法の一部を改正する法律)で朝鮮から二三人、台湾から五人、そして樺太から三人の議員を選出することが定められていたが、それにもとづく選挙は実施されなかったため、実際には植民地出身議員はいなかった。
 第九〇回議会で、政府は「昭和二〇年法律第三四号中まだ施行していない部分の廃止に関する法律案」を提出して、朝鮮・台湾・樺太に関する部分を廃止することとした。貴族院令が貴族院本会議で可決されたのと同じ六月二九日の衆議院本会議でその提案理由説明に立った大村清一内務大臣は、次のように述べている(25)
  「曩に所謂外地処遇の一翼と致しまして、樺太、台湾及び朝鮮に衆議院議員選挙法を施行し、是等の地よりも衆議院に代表者を送らしめることを目的と致しまして、之に関する所要の規定の制定を見たのであります。併し是はまだ施行せられないで終戦と相成りまして今日に至って居るのであります。固より領土の帰属は、講和条約等の締結なき為め最終的に決定した訳ではありませぬが、諸般の情勢を勘案致しまするに、此の改正法律の施行は到底実現不可能と言うの外はないのであります。〔中略〕昭和二十年法律第三十四号中まだ施行して居ない部分、即ち樺太、朝鮮及び台湾に衆議院議員選挙法を施行せんとする部分は之を廃止することとし、本法律案を提案した次第であります」。
 領土帰属の問題は講和条約で解決されるとの立場をとりつつ、「諸般の情勢を勘案」して、つまり吉田が貴族院で説明したように朝鮮・台湾・樺太には統治権を行使し得ない現実を考慮して、これら地域への衆議院議員選挙法施行を廃止する、というものであった。
 法律案は委員会に付託されて審議されたが、委員会では朝鮮・台湾・樺太への選挙法施行部分の廃止は「当然なるものでありまして、事の性質上質疑の焦点は殆ど先般行はれましたる衆議院議員総選挙、竝に近く行はれんと致しまする所の地方議会議員選挙に関する問題であったのであります」(26)という状態で、植民地への選挙法の施行と敗戦によるその廃止がどのような意味を持つかについてはまったく議論されなかった。唯一、川野芳満議員が「〔朝鮮人・台湾人の選挙権がなくなると〕日本内地で商業上の行為が認められるや否やと云う点を御尋ね致したい」と、的はずれの質問をしている。これに対して、政府委員郡祐一内務省地方局長は、選挙に関することは公法上の問題であって、商業など私法上の問題とは関係がない旨の答弁をした。
 四日の委員会で行われた各党代表の討論もすべて賛成の立場からのものだったが、自由党の磯崎貞序が法案に賛成しつつ次のように述べているのが注目される。

  「〔前略〕昨年四月に施行せられましたる本案が一年余という立場にある今回、これを改めなければならぬということに至ったこの一事、勿論これには今日の環境已むを得ざる理由ということも認むるものでありまするけれども、〔中略〕立法は飽くまでも其の権威の上からいたしましても、世にいわゆる朝令暮改というような、昨日拵えたものを今日それを棄てなければならないというようなことは、聊か法の神聖を冒涜するものであるというような観点からしまして、其の当時の当局の御考えが慎重を御欠きになったのではないか。〔下略〕」

 磯崎が一年前に朝鮮・台湾在住者に参政権を付与したのは慎重さを欠くものだったのではないか、とするのに対して、協同民主党の河野金昇は、「国を挙げて戦争に勝ちたいと思ったから、朝鮮人や台湾人にも選挙権被選挙権を與えて、協力させる為に作った法律だと思います」と述べ、敗戦を迎えた今日これを廃止するのは当然であって、政府や法律を作った当時の議員の責任ではない、と論じている(27)。政府を批判する磯崎にも、擁護する河野にも、植民地支配を反省する考えは見られない。
 七月五日、衆議院本会議で廃止法律案は可決され、貴族院に送られた。
 貴族院の委員会審議では、「斯ういう法律を出さなくても、未施行の侭にして置いても法律的効果は同じではなかろうか。特に斯ういう法律を出されるのは何か政治的意味があるのであるか」との質問が出されたが、政府側は「御説の通り法的効果は此の法案を出しても出さなくても同様でありまするが、貴族院令の改正がありました其の関係もありまして、廃止の手続を執った方が適当であると考えて、此の法案を提出した次第である」と答えた(28)。衆議院では植民地出身議員がいないので、これによって資格を失う議員が出るわけではないが、貴族院での朝鮮・台湾勅任議員の規定削除、議員資格消滅に合わせて衆議院についても朝鮮・台湾に関わる部分を廃止して、明確にしておいた方がよいというのが、政府の答弁だったのである。一七日、貴族院本会議は、委員会審議の報告を受け、質疑なしで同法案を可決、成立させた。

(2)地方公共団体選挙法における参政権停止

 内務省に強大な権限を持たせていた戦前の地方制度を改め、「地方自治」を強化することは、米占領軍の民主化政策の一つであった。第九〇回議会に日本政府は、これに関わるいくつかの法律案を提出した。東京都制・市制・町村制・府県制のそれぞれの一部を改正する法律案である。衆議院議員選挙法と同じように、選挙権・被選挙権の年齢要件を引き下げ、女性にも選挙権・被選挙権を認めること、地方公共団体の長を直接選挙で選ぶこと、地方議会の権限を強化することなど、地方自治を確立・強化するための内容が盛り込まれた法律案であったが、日本在住の朝鮮人、台湾人の参政権は衆議院議員選挙法と同じ文言で停止されることになった。
 例えば「市制の一部を改正する法律案」について見ると、附則に「戸籍法の適用を受けない者の市会議員の選挙権及び被選挙権(この法律中公民権に関する規定及び議員の選挙に関する規定の施行前においては、これらの者の公民権)竝びに市長の被選挙権は、当分の間、これを停止する」と定められた(29)。市会議員に関しては「選挙権及び被選挙権」が停止されているのに対し、市長に関しては「被選挙権」だけの停止が定められているのは奇異な感じがするかもしれない。この部分だけを見れば、朝鮮人・台湾人にも市長の選挙権があるかのように思われるが、現実には市長の選挙権も停止されるようになっていた。というのは、市長の選挙権は「市会議員ノ選挙権ヲ有スル者」に限られると定められている(第七三条)ので、戸籍法の適用を受けない者は市会議員の選挙権・被選挙権のみならず市長の選挙権も自動的に停止される仕組みになっていた。一方、市長の被選挙権については住居の要件がないため、その市に住まず市会議員の選挙権を持っていない者でも立候補できることになっていたため、これについては附則に規定が盛り込まれた。つまり他の市町村に住む朝鮮人・台湾人の立候補を排除するために、「市長の被選挙権」の停止だけが条文として記されたのである。
 この附則のうち「市会議員」「市長」の部分を、「東京都制の一部を改正する法律案」では「都議会議員又は区会議員」「都長官」に、「町村制の一部を改正する法律案」では「町村会議員」「町村長」に、「府県制の一部を改正する法律案」では「北海道会議員」「府県知事」に置き換えた法律案が議会に提出された(30)
 これらの法律案の「戸籍条項」に関しては、七月二六日の衆議院委員会で早稲田柳右エ門(自由党)が、一部の朝鮮人には選挙権・被選挙権を認めるべきではないかと、次のように質問している(31)

  「〔内務大臣が朝鮮人に対する取り締まりを厳重にすると述べたことに関連して〕併シ之ニ対スル保護ト云フ面カラ考ヘマシテモ、内鮮人〔「内地在住朝鮮人」の意であろう――水野〕ガ曾テハ選挙権ヲ持ッテ居ッタ、所ガ終戦ト同時ニ、本籍ノアル者ハ現在選挙権ガアル訳デアリマスガ、寄留シテ居ッタ者ハ委ク選挙権ヲ剥奪サレテシマッタト云フノデ、善良ナル内鮮人ノ中ニハ、非常ニ不満ニ思ッテ居ル者ガ多イ訳デアリマス、特ニ帰化ヲ希望シテ居ル者、或ハ内地人ヲ妻トシテ居ル者等ハ、モウ既ニ二十年モ三十年モ内地ニ居住シテ居リマシテ、内地人ニナリ切ッテ居ル、是ガ寄留簿シカナカッタ為ニ選挙権ヲ無クシタト云フノデ、非常ニ問題ニシテ居リマス、是等ノ人々ニ対シテハ日鮮融和ト云フ観点カラ見マシテモ、又此ノ人達ノ尽シテ居ル今日マデノ功績カラ考ヘマシテモ、当然適当ノ方法ヲ取ッテ選挙権、被選挙権ヲ与ヘルノガ妥当デハナイカト考ヘテ居リマスガ、之ニ対スル所見ヲ御伺ヒシタイ」

 早稲田の見解(そして言葉遣いも)は明らかに戦前の「内鮮融和」の考えをまったくそのまま引き継いだものではあるが、衆議院議員選挙法から始まる各種選挙法改正の過程で日本在住朝鮮人(および台湾人)に選挙権・被選挙権を認めよとする見解を議会で表明した唯一のものである。ただし、早稲田もすべての在住者に認めるというのではなく、帰化を希望する者、日本人を妻とする者などに限定していることを見落とすべきでない。それはまさに「内鮮融和」の立場からの発想であった。
 早稲田の質問に対して、大村清一内務大臣は、外国人に参政権を与えるということは外国でも例のないことだが、「此ノ点ニ付テハ尚ホ能ク考慮シナケレバナラヌ点ガ残ッテ居ルト思ヒマス」とし、国籍に従って参政権を処理するとすれば「善良ナル朝鮮人ノ人ハ日本ニ帰化スルコトニ依ッテ、政治参与権ヲ得ルト云フヤウナ途モ固ヨリ開カネバナラヌコトデアリマス」と述べている。しかし、大村は続いて、朝鮮の国際的帰属が決定するまでは帰化も「取扱ヒ兼ネル」とし、さらに日本に貢献している朝鮮人が少なくないことを認める一方、「我ガ国ノ敗戦後越規不法ノ行為、殊ニ我ガ国ノ社会治安ヲ紊スヤウナ行動モ少カラズアル」ことを理由に帰化の問題を直ちに解決することはできない、と答えている。結局講和条約の締結まで問題を先送りする政府の立場を大村は再び表明するにとどまったのである(32)
 この第九〇回議会には戦後最初の総選挙で選出された日本共産党の議員も出席していた。前に述べた貴族院令の改正、衆議院議員選挙法中のまだ施行していない部分の廃止の二件は、植民地に日本の統治権が及ばないという状態を法的に確認する意味もあったから、共産党にとっても当然の法案であったが、地方参政権から日本在住の朝鮮人・台湾人を排除する法案に対しては、反対する姿勢を明らかにしてもよさそうである。しかし、八月三一日の衆議院本会議で法案に対する反対演説をした徳田球一も、法案では地方行政の改革、民主化が徹底されていないことを反対理由としているが、「戸籍条項」にはまったく触れていない(33)。これは、日本共産党の朝鮮人幹部や在日本朝鮮人連盟が参政権を要求していたにもかかわらず、共産党自体はその問題に真剣な態度で取り組まなかったことを示しているといえよう。  地方制度に関する四法案は、八月三一日衆議院、九月二〇日貴族院で可決され、成立した。その後、これらの法律は地方自治法(一九四七年四月一七日公布)に一本化され、同法附則第二〇条にやはり「戸籍条項」が設けられた。同法の審議過程ではもはや「戸籍条項」に触れる議論が行なわれることはなかった。

(3)参議院議員選挙法における参政権停止

 一九四六年一一月三日、日本国憲法が公布された後、一一月二六日から一二月二六日まで開かれた第九一回帝国議会で新憲法にもとづく参議院の選挙制度に関する法案(参議院議員選挙法案)が審議された。この法案は、衆議院議員の選挙権をもつ者のほか、破産者・被救護者・刑余者にも選挙権を認めるとして、衆議院議員の場合より選挙権の要件を広くしたが、朝鮮人・台湾人については衆議院議員選挙法と同じように附則第九条に「戸籍条項」が設けられた。これに関わる議論は本会議でも委員会でもなされることなく、法案は一二月二五日成立した。
 ところで、この法案に関わって内務省が作成した文書に朝鮮人の参政権に関わる一つの記述が見られるので紹介しよう。
 同法案は、附則第一条に「皇族及び華族の戸主は、当分の間、この法律の規定にかかわらず、選挙権を有する」としていた。戦前、皇族は国籍法・戸籍法の適用を受けず、「帝国臣民」ではなかったので、衆議院の選挙権・被選挙権をもっていなかった反面、その全員が貴族院議員となった。華族については、公侯爵は全員、伯男子爵も二割ほどが貴族院議員になることになっていたのと引き換えに、戦前の衆議院議員選挙法で「華族ノ戸主ハ選挙権及被選挙権ヲ有セズ」(第七条)と定められていた。貴族院の廃止でこのような特権を失った皇族・華族に参議院議員の選挙権を与えるために、付則第一条が設けられたのである。
 内務省地方局が議会での答弁に備えて作成した「参議院議員選挙法案に関する質疑応答」(一九四六年一一月)(34)と題する文書は、この附則第一条の規定に関わって、「王公族は目下のところ戸籍法の適用を受けないものとして当分の間選挙権及び被選挙権を有しない」と記している。韓国併合以後、日本の「王族・公族」として処遇されてきた李氏朝鮮王朝の王族らは、参議院議員の選挙権を付与される日本の皇族・華族とは異なり、やはり「戸籍法の適用を受けない者」として参政権から排除するというのが、日本政府の解釈であった。議会での審議で王公族の選挙権・被選挙権に関わる質問は出なかったが、朝鮮人そして台湾人を選挙から排除する点において、日本政府はきわめて用意周到であったことを示している。
 その後、一九五〇年四月、衆参両院議員、地方公共団体の長および議員の選挙に関する法律が一本化されて公職選挙法が制定された。これが度重なる改正を経て現在まで続いている法律であるが、その附則に「戸籍条項」が設けられたことはいうまでもない。
 

三 朝鮮人・台湾人参政権に関する政府見解

  衆議院議員選挙法に「戸籍条項」を設けるに際して、日本政府が依拠した論理は外務省条約局第二課作成と見られる文書「朝鮮人、台湾人等ノ選挙権問題」に示されたものであったが、そこでは朝鮮人・台湾人を「帝国臣民ト外国人トノ中間的地位」にあるものとして取り扱うのを妥当とし、それを根拠に参政権を停止する措置をとるとしていた。これは、「初期の基本的指令」に示される米国・GHQの認識――基本的に「解放国民」であるが、場合によっては「日本人」として扱ってもよいとする立場――に似ているようだが、実際にはかなり違うものであったように思われる。というのは、「解放国民」としての法的地位が明確に規定されなかった状態では、日本国籍を持つものとしての権利が最低限守られるべきであったにもかかわらず、選挙法の改正はそれをも否定したからである。日本政府は権利の面では朝鮮人を「解放国民」でも「日本人」でもないものとして扱うこととしたのである。
 ひとたび衆議院議員選挙法とその後の各種選挙関係法に「戸籍条項」が設けられると、それを理由に在日朝鮮人・台湾人は日本社会とのつながりを弱めたとされ、さらには権利に関わる問題では日本国民でない、と見なされることになった。
  衆議院議員選挙法の改正以降、各種選挙法に「戸籍条項」が設けられ、在日朝鮮人・台湾人が選挙権・被選挙権を持たないことが確定したが、在日朝鮮人などの側からは参政権を要求する声が続いていた。これに関して日本政府が示したいくつかの見解を検討しておこう。
  衆議院議員選挙法改正の後しばらく、日本政府が自らの見解を表明することはなかったが、一九四八年になってそれを行なう必要が生じた。前に述べたように、一九四八年二月二七日の記者会見におけるGHQ・GS代表の発言は、日本政府を驚かせた。そのため三月五日、この件について連絡調整中央事務局(同年二月に終戦連絡中央事務局が改組されたもの)はGHQに問い合わせをした。連絡調整中央事務局の資料は、「先方〔GHQ・GS〕の真意を確かめたのに対し、先方は右答弁は全く非公式に行はれたものであり、GHQとして公式に現行選挙法を改正し朝鮮人に選挙権を与へるよう意思表示したものではないことを明かにした」(35)としている。おそらく日本政府はGHQに発言の取り消しを求めたのであろう。
 これをきっかけに政府は在日朝鮮人の参政権に関して明確な見解を示す必要があると考えたようである。その直後の一九四八年三月二五日付けで全国選挙管理委員会事務局は「在邦朝鮮人の選挙権及び被選挙権に関する件」と題する文書を作成している。内務省解体にともない選挙関係事務を取り扱うため前年一二月に設置され、一九五二年の自治省新設まで存在した全国選挙管理委員会は、政府機関の一つであり、その見解は政府の立場を反映するものであった。文書の内容は次のとおりである(36)

  「一、ポツダム宣言の受諾により日本が朝鮮を自己の領域外として遇することは厳粛なる義務であり又明白なる事実である。従って朝鮮における朝鮮人はもとより、内地に在住する朝鮮人に対しても日本は完全なる主権を行使すべきではない。
  二、実際上に於ても例えば、外国人登録令においては、朝鮮人を外国人として取扱い、又朝鮮人の多くは自ら日本人でないことを主張している。
  三、選挙権は、国民の基本的な権利であってその反面当然重い義務の負担を伴うものであり国家主権の完全なる支配下にあり然も支配下にあることを意識する者にのみ与えられるべきものである。
  故に国籍の確定していない朝鮮人に対して選挙権を賦与しないことは、日本の現状から見て当然の義と解すべきである。」

  在日朝鮮人を参政権から排除するために、衆議院議員選挙法改正の時とは異なる理由を挙げているが、日本政府にとって都合のよい理屈を並べたに過ぎない文書である。日本政府が在日朝鮮人も日本国籍を有しているが故に、日本の法律に従わねばならないとして、朝鮮人の民族学校を閉鎖する措置をとりつつあったのと同じ時期に、朝鮮人に対して「日本は完全なる主権を行使すべきでない」というのは、まさに参政権から朝鮮人を排除するための言い訳に過ぎない。第二の「実際上に於ても例えば、外国人登録令においては、朝鮮人を外国人として取扱」っているとする点は、外国人登録令(昭和二二年勅令第二〇七号)が「台湾人のうち内務大臣の定めるもの及び朝鮮人は、この勅令の適用については、当分の間これを外国人とみなす」(第一一条)としているのを参政権の問題に援用しているものである。日本国籍は維持しているが、将来国籍を離れるので「日本人と外国人との中間的地位」にあるものとして扱う、というのが「戸籍条項」の論理だったが、この文書はそのような論理を超えて、しかも外国人登録令の条文を拡大解釈して朝鮮人は「外国人」とみなされるとしているのである。第三にあげられている理由も「国民」概念を過度に国家主権に引き寄せて解釈したものといわざるをえない。
  さらに全国選挙管理委員会事務局は、同年一〇月二三日にも総理庁官房審議室事務官あてに次のような「在日朝鮮民主同盟抗議文に関する回答」(全選発第五三〇号)を送っている(37)。これは、朝連系団体から参政権を奪われていることについて抗議を受けた総理庁の問い合わせに対する回答である。

   「〔前略〕ポツダム宣言の受諾に伴い朝鮮は、わが国の領土より離れてすでに独立国たる地位に立ち、日本在住の朝鮮人は、すべて外国人として外国人登録令により登録せられているのであって、すでに実質上わが国籍をはなれたものとすべく従って日本国民たるものではないのであるから、日本国民たる者に対してのみ与えられるべき選挙権及び被選挙権を朝鮮人に与えることができないものと解する。」

 この回答は、七ヵ月前の文書よりさらに踏み込んで朝鮮人を外国人として扱おうとするものである。朝鮮が「わが国の領土より離れて」おり、朝鮮人も「すでに実質上わが国籍をはなれたもの」としているが、これも日本国籍を維持しているとする政府見解と矛盾するものであった。日本政府は場合によって論理の使い分けをしながら、朝鮮人・台湾人の参政権を否定するという立場だけは一貫させたといえる。
 以上の二つの文書で示された見解が、一九四八年から五二年まで間、在日朝鮮人・台湾人の参政権に関する日本政府の公式の見解になったと見られる。公職選挙法が制定された一九五〇年に、選挙法を担当する実務家である皆川廸夫(総理府事務官、全国選挙管理委員会事務局勤務)が書いた論文に同じ論理が記されているからである。皆川は、朝鮮人・台湾人・「樺太土人」の国籍は講和条約、国際慣習あるいは条理によって決定されるので、講和条約締結以前は日本国籍を有するものと考えられているが、これには疑義があるとして、次のように述べる(38)

  「この度の太平洋戦争の終結は、従来の戦争の終結と非常に趣を異にしていて、(一)ポツダム宣言によって示された停戦協定が従来にその例を見なかった程強い法(国際条約)的性格を有すること、(二)戦争の終結から講和条約の締結までが非常に長期にわたること、(三)そしてしかもこの間において日本の主権は朝鮮、台湾等に及ばないものとされ、又日本内地に居住する朝鮮人及び台湾人については本国送還の措置が講ぜられ、内地に残留するこれらの者は外国人として登録され(外国人登録令一一)、新に入国する者は密入国者としての扱を受けること等を考慮するならば、日本内地に居住する朝鮮人や台湾人を、単に純法律上の問題にせよ日本国民と呼ぶことには、多大の疑義が存する。」

  皆川は続いて選挙権に関して検討する。
   「特に選挙権は、国民の基本的な公権であり、反面重い義務を伴うものであるから、国家主権の完全なる支配下にあり、然も支配下にあることを意識する者にのみ与えられるべきものであると考えられる。このように考えるならば、本条〔公職選挙法第九条〕の日本国民の中に朝鮮人、台湾人等が含まれるかどうかは、疑義の存するところであるが、特に内地在住の者については、講和条約締結の際に、朝鮮台湾等の国籍と日本の国籍との何れかを選択する自由を認める(いわゆる選択約款)ことも予想されるので、法律的には国籍の帰属は未定の状態にあるという外はない。戸籍法の適用を受けない者に対しては、当分の間選挙権及び被選挙権を停止するものとしたのは、このような疑義を立法的に解決したものである。」
  皆川は慎重に在日朝鮮人・台湾人の国籍帰属は未定であるとして、外国人扱いをしてはいないが、二年前に全国選挙管理委員会事務局が根拠にあげた外国人登録令や国家主権に引き寄せた「国民」概念を繰り返し、「戸籍法の適用を受けざる者」の参政権を停止するという措置が「疑義を立法的に解決したもの」と説明し、「戸籍条項」を合理化しているのである。しかし、その説明によっても在日朝鮮人・台湾人は日本国籍を維持しているとの政府の公式見解と「戸籍条項」との明白な矛盾は、説得力をもって説明することができなかったといえる。
  一九五二年四月二八日のサンフランシスコ講和条約の発効に伴って、朝鮮人・台湾人は日本国籍を喪失したとする法務府民事局長通達が出された後は、「日本国民」でなくなった在日朝鮮人・台湾人の選挙権・被選挙権は完全に失われてしまうことになる。(39)それ以後は、「戸籍条項」に代わって「国籍条項」が在日朝鮮人・台湾人の参政権を否定する論拠となっていくのである。
 

おわりに

  本稿では、本誌前号に発表した拙稿への補足と訂正を行ない、衆議院議員選挙法改正の際に在日朝鮮人・台湾人参政権が「停止」されたのは法的論理によるのではなく政治的・治安対策的な観点によるものであったことを再確認した。また、その後の各種選挙法にも「戸籍条項」が設けられ、在日朝鮮人・台湾人は参政権から完全に締め出されたが、その点で日本政府が周到な法律の改正をしたことも明らかにした。
 しかしながら、朝鮮人・台湾人は日本国籍を離脱していないという政府の見解と、彼らの参政権を否定する現実の法律との矛盾は、整合的に説明しがたいものであった。この矛盾を説明・解釈しようとする試みがある裁判官によってなされているので、紹介しておく。
  一九四九年、岐阜地方裁判所判事越川純吉が書いた『日本に存在する非日本人の法律上の地位(特に共通法上の外地人について)』は、「外地人」(すなわち朝鮮人・台湾人など)の法的地位に関する研究としてよく知られるものだが、越川はその中で、講和条約の締結まで「外地人」が日本国籍を有すると見なしたり、あるいは国籍が未確定であるとするのは、法的秩序の観点から好ましくないという見解を示したうえで、「国籍を完全には保有しないが、国籍の喪失までには至ってないという状態即ち国籍の停止という新概念」を立てるべきであると主張する(40)。越川は「日本人たる資格を有する者のみが享有出来る権利、利益、地位及び負担する義務」が「外地人」にもあるかどうかで、国籍の停止を判断することができるとし、衆議院議員選挙法その他において朝鮮人・台湾人などが「日本人としての権利である選挙権を停止され、その根本の政治組織に参与出来なかったということは、政治組織と連結する概念である国籍に重要な影響がある」、すなわち日本国籍を停止されたことを示しているのでないか、と論じる(41)。そのことによって、在日朝鮮人などが「日本社会員たるの資格が停止されて居るから、日本地域社会の一員たる資格は停止されていると見られよう」(42)とも述べている。参政権の「停止」によって、「国籍の停止」「日本地域社会の一員たる資格」の「停止」が理由づけられているのである。
 越川が主張する「国籍の停止」という概念は日本政府のとるところとはならなかったが、現実の政策はそれに近い形で展開されたといえるかもしれない。選挙権・被選挙権の停止↓「国籍の停止」↓日本社会の構成員からの排除↓各種権利からの排除という論理が、日本政府の政策の底を貫通していたように思われる。そのように考えるとすれば、選挙権・被選挙権が「停止」されたことは、在日朝鮮人の法的地位を戦後長い間規定するものとなったという点で、日本政府の在日朝鮮人政策の起点だったのである。
 


 

(1) 入江誠一郎氏追悼集刊行会編『入江誠一郎氏を偲ぶ』同刊行会、一九六五年、に一九四五年八月一五日から翌年一月二五日までの日記が抄録されている。日記原本の所在は不明であり、「抄録」とされるのがどの程度記述を省いたものか確認することができない。本稿での引用は、本文中に『偲ぶ』の頁数で示す。

 (2) 鈴木俊一氏とのインタビューは、一九九六年八月一六日、財団法人東京国際フォーラム事務局において、筆者と毎日新聞大阪本社特別報道部の山内雅史記者が共同で行なったものである。なお、内政史研究会資料第二〇九―二二一集『鈴木俊一氏談話速記録』全三冊、内政史研究会、一九七七年、は鈴木氏に対して行なわれた一三回にわたるインタビューの記録であるが、在日朝鮮人・台湾人の参政権問題についてはまったく言及がない。また、当時内務省地方局事務官として選挙法改正作業に加わった小林與三次氏(現読売新聞・日本テレビ会長)の回想録『私の自治ノート』帝国地方行政学会、一九六六年、あるいは鈴木・小林両氏らが出席した座談会の記録「戦後における選挙制度を語る」『選挙』(自治庁選挙局・全国選挙管理委員会連合会)第一二巻第一一号、一九五九年一一月、などがあるが、これらでも朝鮮人・台湾人参政権の問題には触れていない。筆者は小林氏にもインタビューを申し込んだが、「記憶が薄れている」との理由で断られた。

 (3) 衆議院の調査特別委員会は、一〇月三日の衆議院調査会世話人及主任打合会で委員一〇二名が指名されたことにより成立し、八日に第一回特別委員会を開く予定とされている。昭和二〇年一〇月三日警視庁情報課長官情報第七一六号「衆議院調査会世話人及打合会開催ノ件」粟屋憲太郎・吉田裕編『敗戦時全国治安情報』第一巻、日本図書センター、一九九四年、二四二―二四五頁。この情報文書には委員名も記されているが、委員長などは明記されていない。

 (4) 外務省特別資料部編『日本占領及び管理重要文書集 第一巻基本篇』一九四九年、一三〇―一三二頁。

 (5) 金太基「米国の在日朝鮮人占領政策――政策形成過程を中心に――」『思想』第八三四号、一九九三年一二月、一四五頁。

 (6) 外務省特別資料部、前掲書、一一一頁。金太基『「戦後」在日朝鮮人問題の起源――SCAPの対在日朝鮮人政策 一九四五年〜一九五二年』一橋大学大学院法学研究科、博士学位論文、一九九六年三月、一四九頁、によれば、SCAPは「初期の基本的指令」の内容を一〇月段階で知っていた、という。

(7) 『毎日新聞』一九四八年二月二八日。『朝日新聞』同日の記事では、「在日朝鮮人にはなぜ選挙権を与えないか」との質問に、「日本政府に対して責任をもち税金を払い、法律に従うならば当然選挙権をもつべきである」と答えた、とされている。なお、国会図書館憲政資料室所蔵のGHQ/SCAP文書マイクロフィッシュ、Sheet No. GS(B)-02848 にこの記者会見に関する記録が見られるが、記者との問答は記録されていない。文書には民政局のハッシーのサインがあるが、記者会見をしたのが誰かは明らかでない。

 (8) 以上は、竹前栄治「戦後初期の選挙制度改革(1)」『東京経大学会誌』第一二九号、一九八三年一月、による。

 (9) 敗戦前後の『外務省職員録』には、曽禰益以外に「曽根」なる職員の名前は見当たらない。鈴木俊一氏も曽禰益に間違いないと証言している。なお、曽禰益は伊藤博文に次いで第二代韓国統監となった曽禰荒助の孫で、外務省・終戦連絡中央事務局勤務の後、内閣官房次長を経て参議院議員・衆議院議員となり、社会党国際局長・民社党初代書記長などを務めた。曽禰益の経歴は、衆議院・参議院『議会制度百年史 衆議院議員名鑑』一九九〇年、三四七頁、による。

 (10) 鈴木俊一氏は「入江日記」に記されている「マ司令部」の「意向」のことなど聞いたことがないと述べる一方で、選挙法に関わってのことではないが、一般的に日本側の各機関の意向・見解がGHQのそれとして伝えられることがよくあった、と述べている。

 (11) 筆者が「内務省案が法制局の審査で変更になったとすれば、それなりの議論がなされたはずだが」と質問したのに対して、鈴木氏は長い時間沈黙した後、「記憶にない」とだけ述べた。内務省官僚としては選挙法案が法制局の審査で変わったことは不快なことであり、思い出したくないと感じている、という印象を筆者は持った。鈴木氏のみならず内務省、特に地方局の官僚は、次のように選挙法案作成に絶対的な自信を持っていた。「内務省案ができると、閣議を請う。閣議の前には、法制局の審査が必要であるが、選挙法は枢密院に諮詢されるので、念入りな審査がなされる。〔中略〕一ヵ条の審査に一日も二日も費やされることも稀ではない。地方局の法律案作成には、局の段階で非常に慎重に検討されているので、法制局で修正をうけないという伝統があった」(大霞会内務省史編纂委員会編『内務省史』第一巻、大霞会、一九七一年、八〇一頁)。にもかかわらず、一九四五年秋の衆議院議員選挙法改正に際しては法制局の審査段階で「戸籍条項」が追加されたのである。内務省にとって大きな汚点であった。前稿(五五頁)で、審査終了後の閣議に内務省が提出した参考資料のうち朝鮮人・台湾人に参政権を認める「改正要綱」の部分が削除されていたことを指摘し、これは意図的な「改竄」と考えられると書いたが、それも内務省が自らの失態・汚点を隠そうとしたためではないだろうか。

 (12) この文書は法制局第二部長だった佐藤達夫の「選挙法関係答弁資料」と題するファイルに綴られており、法制局には送られたことがわかる。

(13) 小林與三次「衆議院議員選挙法改正の要旨」『自治研究』第二一巻第一二号、一九四五年一二月、二二頁。

 (14) 鈴木氏は、炭鉱争議や朝鮮人の動きについての情報が選挙法改正に何らかの影響を与えたのではないかとの筆者の質問に対し、「そういった話は、噂にしても何かしら伝わってきていた」と述べて、否定しなかった。

 (15) 前掲『鈴木俊一氏談話速記録 第五回』五五頁。小林與三次『私の自治ノート』一二二頁。

 (16) 太田健一ほか編『次田大三郎日記』山陽新聞社、一九九一年、九五頁。

 (17) 同前、一二九頁。

 (18) 同前、一三〇頁。

 (19) Contemporary Japan”Vol. 15 Nos. 1-4(Jan.-April 1946, The Foreign Affairs Association of Japan発行),p.22.

 (20) 前年四月の議会で朝鮮・台湾勅任議員に選ばれたのは一〇人だったが、そのうち朝鮮人議員朴澤相駿〔朴相駿〕は一九四五年九月二日に死去しており、九人に減っていた。

 (21) 『帝国議会貴族院議事速記録72 第九〇回議会(上)』東京大学出版会、一―二頁。

 (22)同前、三九頁。

 (23)同前、六一頁。これは貴族院専決事項であるため衆議院では審議されなかった。

 (24)同前、七五頁

 (25) 全国選挙管理委員会『選挙制度国会審議録』第一輯、一九五一年、三八五頁。

 (26) 同前、三八六頁。七月五日本会議での委員長稲田直道の報告。

 (27) 以上の委員会での質疑・答弁・討論は、前掲『選挙制度国会審議録』第一輯、三七八―三八四頁による。

 (28) 同前、三九七頁。七月一七日本会議での委員長今園国貞の報告。ただし、一部語句の誤りを『帝国議会貴族院議事速記録72 第九〇回議会(上)』九七頁、により訂正した。

 (29) 『帝国議会衆議院議事速記録82 第九〇回議会(上)』一八五頁。

 (30) 同前、一七七、一九一、一九九頁。

 (31) 『第九〇回帝国議会衆議院委員会速記録』第六類第八号、一九四六年七月二六日、一〇二頁。

 (32)同前、一〇二頁。

 (33)『帝国議会衆議院議事速記録八三 第九〇回議会(下)』六〇三―六〇六頁。

 (34) 国立公文書館所蔵『公文類集』第七一編昭和二二年巻五、政綱門五 参議院二(別冊)所収。

 (35) 『中央連調半月報』第三号、一九四八年三月二〇日、四九頁(『日本占領・外交関係資料集』第六巻、柏書房、一九九一年、四〇頁)。

 (36) 選挙制度研究会編『選挙関係実例判例集(昭和二五年)』帝国地方行政学会、一九五〇年、五一―五二頁、および自治省選挙局編『選挙関係実例判例集』普及版、帝国行政学会、一九六三年、五〇頁。

 (37) 前掲『選挙関係実例判例集(昭和二五年)』五二頁、『選挙関係実例判例集』普及版、五〇頁。

 (38) 皆川廸夫「註解公職選挙法(1)」『選挙』(全国選挙管理委員会・都道府県選挙管理委員会連合会)第三巻第一〇号、一九五〇年一〇月、三三頁。

 (39) なお、外国人の選挙運動に関する島根県の問い合わせに対して、一九五二年一〇月以前に自治庁選挙部は次のような解釈を示している。「〔公職選挙法〕第一二九条関係 問 外国人の選挙運動はできると思うがどうか、もしできないとすれば法的根拠は何か。(島根県) 答 前段お見込の通り。」(『選挙』第五巻第一〇号、一九五二年一〇月、一五頁)。李英和『在日韓国・朝鮮人と参政権』明石書店、一九九三年、三九―四〇頁、によれば、自治省・法務省などは現在外国人の選挙運動は法的に規制されない、との見解をとっているというが、すでに公職選挙法制定当初から選挙権・被選挙権のない外国人の選挙運動を認める解釈をしていたことになる。

 (40) 越川純吉『日本に存在する非日本人の法律上の地位(特に共通法上の外地人について)』(司法研究報告書第二輯第三号)司法研修所、一九四九年、五三頁。

 (41) 同前、六六―六七頁。

 (42) 同前、七八頁。

 
(付記)前稿に対して多くの方々から感想・批評をいただき、またいくつかの事実を指摘された。すべてを本稿に生かすことはできなかったが、この場を借りてお礼を申し上げる。舞鶴工業高等専門学校の三川譲二氏からは『次田大三郎日記』の記述などについてご教示をいただいたことを特に記しておきたい。

 


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