『人文学報』第79号(1997年3月)
注意@校正前の原稿につき、引用などは掲載誌によってください。
       A本文中の注番号をクリックすると、該当の注に飛びます。注の頭の番号をクリックすると、本文に戻ります。

戦時期の植民地支配と「内外地行政一元化」

水 野 直 樹


(目次)
 

 はじめに
T 内外地行政一元化への動き
 (1)一元化以前の植民地支配体制 
(2) 大東亜省設置と内外地行政一元化
U 朝鮮総督府・台湾総督府の対応
(1) 朝鮮総督府
(2) 台湾総督府
V 内外地行政一元化の決定と実態
(1) 一元化の閣議決定
(2) 政府の法令解釈
(3) 内務省と朝鮮総督府・台湾総督府との関係
おわりに



はじめに

 1945年3月26日、第86回帝国議会衆議院本会議は請願委員会からの次のような報告を受け、これを採択した。

  外地ナル呼称廃止ニ関スル請願(第17号)
  請願者旭川市四條通十四丁目左九号商業西田幸次郎
  紹介議員坂東幸太郎
  本請願ノ趣旨ハ政府ガ朝鮮台湾ニ対シテ使用シツツアル外地ナル呼称ハ全日本ノ総力ヲ 挙ゲテ大東亜戦争ニ従事シツツアル今日両地ガ帝国内特別待遇ノ地域ナルガ如キ観念ヲ 与ヘ適当ナラズト信ズ依テ政府ハ速ニ外地ナル呼称ヲ廃止セラレタシト謂フニ在リ。(1)

 「外地」と呼ばれていた朝鮮・台湾などの直轄植民地(日本領土)はもはや「特別待遇ノ地域」ではなく、「内地」同様であるから、「外地」の呼称を廃止すべきであるとする請願が戦争末期の議会(戦前最後の議会でもある)で採択されたことは、ある意味で象徴的である。「外地」と「内地」の差別・区別などないとするのが日本政府の長年の公式的立場であったが、現実には法制度の面でも行政機構の面でも「内地」と「外地」との間にはきわめて大きな違い・格差があった。ところが、アジア太平洋戦争開始後には「外地の内地化」が叫ばれ、実際の統治機構においても1942年秋に「内外地行政一元化」が図られることになった。「外地呼称の廃止」請願が採択されたのも、その表われであったと考えてよい。
 しかしながら、戦時期に「外地の内地化」が言葉だけでなく実態としても行なわれたのかどうかは、いささか疑問である。植民地支配当局が「一視同仁」「内鮮一体」を謳いながら、一方で「外地の特殊事情」を理由として「内地」とは異なる統治方式をとり、朝鮮人・台湾人と日本人とを別扱いとしてきた政策が、戦時体制の下でそれほど簡単に変化したとは考えられないからである。
 「外地の内地化」の問題に関しては、これまであまり研究がなされていない(2)。ほとんど唯一の研究といえるのは、山本有造『日本植民地経済史研究』(名古屋大学出版会、1992年)の第一章「日本における植民地統治思想の展開」である。山本は、日中戦争後の前期「皇民化」政策に続くアジア太平洋戦争期の後期「皇民化」政策の時期には、中央(本国=軍部)の主導性が強まり、「内外地統合」と植民地の「内地化」「内地人化」が追求されたとし、1942年11月の「内外地行政一元化」の措置によって「朝鮮総督の『特権』が強く牽制されるとともに、朝鮮・台湾総督は並列して本国政府の監督・指示に従うことになり、いわば両地の『準内地』化が一段と進んだ」(57頁)、「国家総動員体制の進展は、思わぬ力で『外地の内地化』『外地人の内地人化』を推し進めた。日本の植民地同化政策は戦争を媒介にして急速にその終着駅に近づきつつあったといえる」(58頁)と述べている。同書は植民地支配全期にわたって日本の統治政策とその前提となるイデオロギーを整理するに当たって、内地延長主義(同化主義)と特別統治主義という二重性を帯びていた植民地統治がその末期において「同化主義」に一元化した(61頁)、とするとらえかたをしており、「内外地行政一元化」もその観点から取り上げられている。
 最近刊行された近藤正巳『総力戦と台湾』(刀水書房、1996年)も、内外地行政一元化の問題に言及している。同書は、一元化そのものの位置づけをしているわけではないが、一元化の措置がとられた後、台湾総督府はむしろ総督政治の強化を目指し、特に南方との関わりで積極的な姿勢を示した、と述べている(408-410頁)。
 山本前掲書が論じるように、「外地の内地化」問題は、日本の植民地支配政策を総体としてどのようにとらえるかという問題と関わっている。台湾の植民地化の段階から、日本の植民地政策には「特別統治主義」と「内地延長主義」の2つの基調が見られ、現実の政策は両者の相克と折衷として展開されたといえる。もちろん、時期によっていずれかが強調されることもあり、同じ植民地でも樺太・台湾・朝鮮では違いがあることも注意されるべきである(山本前掲書、28―29頁)。全体としては、初期において「特別統治主義」の色彩が強かったのが、次第に「内地延長主義」が強調されるようになったことは認めねばならない。しかし、山本が主張するように、戦時期、特にアジア太平洋戦争期に「外地の内地化」「外地人の内地人化」が現実のものとして急速に進行したといえるかどうかは、さらに綿密な検討が必要であるといわねばならない(3)
 「外地の内地化」問題は、次のような3つのレベルで考えなければならないと思われる。(1)植民地行政を扱う中央行政機構の問題(中央政府における内務省と拓務省の統合)、(2)中央行政機構と植民地支配機構の関係の問題(「総合行政機構」としての総督府の解体ないし府県化)、(3)法域統一の問題(「内地人」と「外地人」との間の区別・差別の解消)である。
 本稿では(1)および(2)のレベルでの「内地化」に関わる問題として「内外地行政一元化」を検討の対象とする。戦時期に外地を「内地化」するためにとられた政策としては、1942年秋の「内外地行政一元化」と1945年春の朝鮮・台湾在住民の「政治処遇改善」をあげることができる。「外地の内地化」問題を考察するには、この2つの政策を全体として検討する必要があるが、本稿では対象をひとまず「内外地行政一元化」に限定して考察してみたい。その際、朝鮮総督府と台湾総督府の対応、朝鮮と台湾の扱いの違いに注意を払うこととする。

T 内外地行政一元化への動き

(1) 一元化以前の植民地支配体制

 内外地行政一元化を検討するための前提として、それ以前の日本の植民地支配体制を中央政府と植民地支配機構(総督府)との関係、および日本本国(内地)と植民地(外地)との法制的関係の2点について簡単に述べておこう。一元化を考察することを目的とするので、ここでは朝鮮と台湾とに限定し、樺太、関東州、南洋群島については言及しない。
 まず台湾に関しては、植民地化当初設置された拓殖務省(1896年4月から翌97年8月まで)の時期に台湾総督は拓殖務大臣の監督を受けることとされていた(4)。これ以後、台湾総督府の事務を中央で管轄する官庁はめまぐるしく変化したが、台湾総督が中央政府の内閣総理大臣あるいは所管の大臣の監督を受けるという点は変ることがなかった。法制の面では、1896年法律第63号「台湾ニ施行スベキ法令ニ関スル法律」(台湾法令法)で台湾総督が法律の効力を持つ命令(律令)を発する権限を持つとされ、内地の法律より律令が優先される法制がとられた。 台湾における律令本位の法制度に関しては多くの議論が交わされ、部分的な変更もなされたが、大きくは変わることなく1921年まで続いた。しかし、「内地延長主義」を信条とする原敬内閣時代の1921年になって法律第3号「台湾ニ施行スベキ法令ニ関スル法律」が新たに制定され、内地法を本位とする法制度に改められることになった(5)
 これに対して朝鮮については、併合直後に定められた「朝鮮総督府官制」(勅令第354号)が「総督ハ天皇ニ直隷シ」「諸般ノ政務ヲ統轄シ内閣総理大臣ヲ経テ上奏ヲ為シ及裁可ヲ受ク」として、台湾総督とは異なる特別の地位を有することを規定した。この規定は、朝鮮総督に対する中央政府の監督権を否定したものとはいえないにせよ、それを極めて制限的に解釈する根拠となった。法制の面でも、1911年法律第30号「朝鮮ニ施行スベキ法令ニ関スル件」(朝鮮法令法)は台湾法令法第63号とほぼ同じ内容であり、朝鮮総督の発する命令(制令)を内地法に優先させる法制度が敷かれた。台湾法令法が1921年に改正された後も、朝鮮法令法は改正を加えられることなく続いた(6)
 1929年、拓務省が設置された際にも、朝鮮と台湾に対する統治のあり方の違いが表われた。政府は当初、外地統治の中央機関として拓殖省(のち拓務省に変更)を設置し、そこが外地事務を担当することとし、これに対応して朝鮮総督府官制も「朝鮮総督ハ拓務大臣ニ由リ内閣総理大臣ヲ経テ上奏ヲ為シ及裁可ヲ受ク」と改正しようとした。ところが、枢密院や朝鮮側(主に総督府および在留日本人)の反対で朝鮮総督府官制の改正は見送られた。枢密顧問官である前総督斎藤実や朝鮮総督府は、他の植民地と異なる朝鮮の特殊性、朝鮮総督の特別の地位などをあげて政府案に反対したのである。このため、政府は朝鮮総督府官制に手を付けず、また拓務省には管理局・殖産局・拓務局の3局以外に朝鮮部を置いて朝鮮総督府に関する事務を担当させることとした。拓務省設置の経緯は、朝鮮を台湾など他の植民地とは切り離して別格とし、拓務大臣は朝鮮総督に対する監督権を持たないとする解釈が有力となったことを示している(7)
 ところで拓務省は設置直後から廃止論にさらされていた。1931年頃、大蔵省は行政整理の一環として、拓務省を廃止し、内閣の下に拓務院を置くとするプランを作成していた(8)。この案によれば、拓務院総裁には国務大臣の一人が充てられ、内閣総理大臣の管理の下で朝鮮総督府・台湾総督府・関東庁・樺太庁・南洋庁に関する事務を掌るとされている。拓務院が樺太庁の事務を管理するのは「経過的」なものとされ、他の植民地支配機構がそのまま存置されるのに対して、樺太庁は廃止する方向で考えられていたようである。別の文書では、「樺太ノ特殊行政制度ヲ廃シ適当ノ条件ノ下ニ北海道各府県ニ近似シタル行政制度ヲ設クルコト」とされている(9)。樺太の「内地編入」がこの時期から検討されていたことが確認できるが、朝鮮総督府・台湾総督府の事務については拓務省廃止後も拓務院という中央機構が担当することになっており、朝鮮・台湾についてはまだ「内地化」が課題とされていなかったと考えられる。
 しかしながら、拓務省の廃止が論じられること自体が外地行政の「内地化」が議論の対象となる可能性のあることを示している。

(2) 大東亜省設置と内外地行政一元化

 1942年に浮上した「内外地行政一元化」問題は、植民地支配機構(朝鮮総督府・台湾総督府)の側から提起されたものでも、外地行政事務を扱う拓務省から提案されたものでもなかった。アジア太平洋戦争開始後、占領地の拡大にともなって興亜院・企画院・軍部などが中心となって推進した大東亜省新設の動きの中で表われた問題である。その間の経緯を見ておくと、次のとおりである(10)
 1938年に設置された興亜院は中国における占領地の政治・経済・文化などに関する業務を担当する中央機関であったが、実際には軍特務機関が従来どおり占領地業務を行なったため、行政事務が複雑になり中国側にも不評であったという。1940年9月の北部仏印進駐、1941年7月の南部仏印進駐によって占領地を拡大した日本政府は、それらに対する外交を扱う機関を整備する必要にも迫られた。そのため1941年には、いわゆる「大東亜地域」の行政・外交を担当する機構の整備問題が論じられることになった。
 アジア太平洋戦争開始直後の1942年2月、興亜院で機構改革案の作成が始まり、3月10日には興亜院・企画院・陸海軍省の4者が諒解した「最終的案」が作成された。この「大東亜建設及帝国外交運営ニ関スル綜合行政機構整備ニ関スル件」は、「大東亜」の建設と外交とを一元的に推進する「総合責任官庁」として「外政省」を設けることを骨子とするものであったが、従来の拓務省(11)に関しては「之〔拓務省〕ヲ廃止シ拓北局及拓南局ノ事務ハ之ヲ外政省ニ統合スルコト」とし、その備考で「拓務省管理局ノ事務ハ概ネ内務省ニ、又殖産局ノ事務ハ関係各省ニ夫々之ヲ移管スルモノトス」「南洋庁ニ関スル事務ハ之ヲ外政省ニ移管スルモノトス」(12)として、拓務省の解体、同省管理局の内務省への移管を打ち出した。ただし拓務省朝鮮部をどのように扱うかは明記されていない。
 外務省の側は、「大東亜共栄圏」に対する外交を自らの手に確保するために、興亜院を外務省東亜局に吸収統合する案をもって、興亜院・企画院などの案に反対したが、同年7月には企画院の手になると考えられる文書「東亜省設置ニ関スル件」が作成され、「大東亜地域内諸国及我新領土」に対する政治・経済・文化などすべての施策(ただし「純外交」を除く)の企画・実施に関する事務を取り扱う「東亜省」の設置が提唱されるにいたった。3月の「外政省」案と比べると、「東亜省」の事務から「純外交」を除くとしている点に違いがあるが、骨子はそのまま引き継いだものである。この文書は、拓務省に関しては、それを廃止し、拓北局・拓南局および南洋庁の事務を東亜省に、拓務省管理局の事務はおおむね内務省に、殖産局の事務は関係各省に、南米移植民・拓殖事業に関する事務は外務省に移すとしている。朝鮮、台湾、樺太に関する行政を「内地に準じて取扱う」とするものであった(13)。3月の案とほぼ同じであるが、朝鮮などに関する行政を「内地に準じて取扱う」とされた点が重要である。3月案では移管先の明確でなかった朝鮮に関する事務を内務省に移すことを前提としていたようである。
 外務省はこれに対して、8月11日に幹部会で「外政省」(仮称)案を決定し、興亜院などの3月案と同じ「外政省」と名づける官庁を設置することとしながら、実際には外務省の強化拡充、特に外務省東亜局の拡充をもって大東亜共栄圏地域をも含む外交・経済政策に当たるとすることによって「東亜省」新設に反対する姿勢を示した(14)。この外務省案は、「拓務省興亜院(本院及出先)、対満事務局第六委員会等ハ之ヲ廃止シ其ノ事務ハ東亜局等ニ移管配分ス」としている。拓務省の事務の移管先が明記されていないが、朝鮮・台湾などの行政事務は企画院案と同様に内務省に移管することを予定したものであったと思われる。大東亜省の設置をめぐっては外務省と企画院・東亜院などとが対立していたが、拓務省の廃止に関してはこの時点で両者の間に意見の違いがなかったと推測される。
 1942年8月29日、東条英機首相は東郷茂徳外相に「大東亜省設置案」を示し、9月1日の閣議でこれを討議した。東郷は強く反対し、辞任するにいたったが、東条が外相を兼任することとして、同日大東亜省設置案を閣議決定した。閣議で決定された「大東亜省設置ニ関スル件」は、「対満事務局、興亜院、外務省東亜局及南洋局、拓務省ハ大東亜省ノ設置ニ伴ヒ之ヲ廃止ス」とし、さらに朝鮮、台湾の行政については次のように述べている。

  朝鮮及台湾ニ関スル行政ハ必要ナル範囲ニ於テ之ヲ内地ト同様ニ取扱フヲ目途トシ朝鮮総 督府及台湾総督府ニ関スル事務ノ統理ハ内務大臣之ヲ行ヒ各省ノ主務ニ就イテハ各省大臣 之ヲ監督スルコトトシ之ガ実施ノ方式ニ関シテハ別途考究スルコト但シ朝鮮、台湾ニ於ケ ル現地ノ綜合行政ハ概ネ現状ニ依ルモノトスルコト(15)

 この閣議決定によって、拓務省を解体して、朝鮮・台湾に関する行政事務を内務省に移管することが決まったが、内務省・関係各省と両総督府との関係がどうなるか、とりわけ具体的に内務大臣が総督に対する監督権限を持つかどうか、については「別途考究スルコト」とされており、まだ結論が出ていなかったのである。朝鮮総督府・台湾総督府の「綜合行政ハ概ネ現状ニ依ル」としており、植民地支配機構には手をつけないことだけが確認されている。
 この段階まで内閣では、朝鮮総督に対する監督権限を内務大臣に与える方向で内外地行政の一元化が考えられていたようである。後述するように、9月11日に閣議決定された「内外地行政ノ一元化ニ関スル件」などの原案にそれが表われている。中央の所管大臣(内務大臣)との関係では朝鮮総督と台湾総督を同列に置こうとする案である。このような中央政府の意向に対して両総督府がどのように対応したのかを次に見ておかねばならない。
 

U 朝鮮総督府・台湾総督府の対応

(1) 朝鮮総督府

 朝鮮総督府側は、以前から植民地行政の中央機構への統合に反対する姿勢を明確にしていた。内外地行政一元化が検討されるより1年前の時点でこの問題に関する基本的立場を文書化しているのが見られる。1941年12月に開かれた第79回帝国議会での答弁に備えて、朝鮮総督府が作成した『議会説明資料』には、次のように記されている(16)

   (五)朝鮮ニ於ケル総合行政ノ内地統轄ニ対スル可否
産業、金融、交通、通信等ノ事務ヲ漸次中央ニ統合シ夫々農林、商工、大蔵、逓信等各省 ノ主管ニ移管シ朝鮮総督府ニハ夫レ以下ノ地方的行政事務ヲ担当セシメントスル所謂内地 統轄案ハ朝鮮ノ現状ニ鑑ミ到底容認シ得ベキ所ニアラズ

 続いて内地統轄を「到底容認シ得」ない理由が5点にわたって記されている。その第一は、総督の「統治責任」「綜合行政」に関わる問題である。

   総督ノ統治責任完遂上朝鮮ニ於ケル総督ノ綜合行政態ハ変改シ難シ
朝鮮総督ハ天皇ニ直隷シ朝鮮統治ノ全責任ヲ一身ニ負フモノナルヲ以テ其ノ綜合行政態ノ 枢要部分ヲ移譲シテハ統治ノ責任ヲ完遂シ得ズ即チ統治ノ全責任ト綜合行政態トハ不可分 ニシテ所謂「全部カ然ラズンバ皆無」ナリ部分的ノ権限移譲ノ如キハ総督政治制ヲ存置ス ル以上考慮シ得ベキ事項ニ非ズ而モ内鮮ノ間立法、兵役、参政権、租税、教育ノ制度等総 テノ区別ヲ撤去シ総督政治ヲ撤廃シ得ルノ日ハ近キ将来ニハ期待シ難シ

 朝鮮総督府にとっては総督が権限を集中的に行使する「総督政治」の撤廃は「近キ将来ニハ期待シ難」いことであり、総督の権限を部分的に移譲することは「総督政治」の存在を危うくするもの以外の何ものでもなかったのである。
 第二の理由は、「総督府所管事項ハ相互ニ有機的関聯アリテ一部ヲ分離シ難ク又分離シタル場合ハ政策ノ分裂ヲ来ス」というものである。所管事項を各省に分離して委ねると、当該事項だけに視野が限られることになり、また「内地本位」に決定される傾向を免れず「統治上取リ返シ難キ失政ヲ招く」ことになる、総督府の綜合行政によるなら「中央ノ方針ニ順応シツツモ当ニ朝鮮統治ノ一部面トシテノ考察ヲ忘レズ中央ノ方針ヲ充分咀嚼ノ上善処シ得テ結局帝国ノ結合強化政策ノ統一ノ為貢献シタルノ結果ト為ルベシ」と述べている。
 理由の第三は、「半島民心ニ悪影響アリ」とする点にある。

   朝鮮人民心ニ及ボス影響ヲ考慮スルニ朝鮮民衆ハ総督ノ絶対無二ノ権力下ニ在リテ初メテ 其ノ安定ヲ期シ得ベキニ突如トシテ総督ニ対立スル行政機関ノ出現ハ民心ノ一部ヲ総督ヨ リ分離スルノ結果ヲ生ジ其ノ影響スル所鮮少ナラザルモノアリ

 植民地支配を安定させるためには「総督ノ絶対無二ノ権力」が必要であるということである。
 第四の理由は、「行政権ノ一部移譲ハ却テ事務ノ錯綜凝滞ヲ来シ所期スル所ト逆ノ結果ヲ来スベシ」とするものである。一部権限の移譲を受けた当該省が朝鮮で事務を執行しようとしても総督府の諒解・援助がなければ事務も行なえず効果も上がらないであろう。また所管省が増えると「内地ノ各省割拠ノ弊ハ其ノ害毒ヲ朝鮮ニ迄流出スルニ至ル」であろう。
 理由の第五には、「強力ナル綜合行政態ハ現下戦時国策遂行上最適ノ体制ト認メラル」という点があげられている。戦時下においても朝鮮総督府が内地行政機構に従属することを拒否する態度を示した部分である。

   要之本府所管事務ヲ各省ニ分○〔1字不明〕セシムルガ如キハ朝鮮統治ノ推進力ヲ弱メ決 シテ戦時下朝鮮ガ帝国ノ一翼トシテ将タ大陸前進基地トシテ負荷スル重大使命ヲ遂行スル ニ適当セル体制ニ非ズ寧ロ朝鮮トシテハ総督ノ立法、行政等各般ノ広汎ナル権能ヲ活用シ テ敢然強力ニ政策遂行ニ邁進スベキ秋ニシテ現戦時下ニ於テ総督ノ権限ヲ分割又ハ弱化セ ントスルガ如キハ凡ソ時代逆行ノ策ト謂ハザル可ラズ

 以上のように様々な理由をあげて、朝鮮総督府としては綜合行政機構の解体、内地行政機構への従属をあくまで拒否する立場を明確にしていたのである。
 では、拓務省の廃止、朝鮮総督府関係事務の内務省移管が検討されることになった時、朝鮮総督府はこれにどのように対処したであろうか。
 実は内外地行政一元化の話が持ち上がる前に、朝鮮総督府は中央政府と交渉すべき懸案として行政機構簡素化の問題を抱えていた。アジア太平洋戦争開始後、各官庁の職員を減らして、占領地に派遣するために行政機構簡素化が実施されることになり、1942年7月28日に中央官庁における機構改革・人員削減の措置が決定していたが、翌8月には外地官庁の機構改革が検討されつつあった。8月19日、朝鮮総督府政務総監田中武雄が東京に到着して、拓務省など関係当局と折衝を開始した(17)。21日には行政簡素化の骨子が決まったが、田中が朝鮮に戻ろうとする間際に内外地行政一元化の問題が持ち上がり、田中はそのまま9月17日まで東京にとどまることになった。(18)
 田中武雄は、朝鮮総督府警務局長を経て、1939年4月から1942年5月まで拓務省次官(朝鮮部長)を務めた後、総督府政務総監に任命されたばかりであった。中央官庁側と総督府側の両方の立場を理解する人物であったが、内外地行政一元化問題では当然総督府の立場に立って、中央の監督権限を強めようとした政府・内閣と対立した。「今度の田中総監の東上は決して気楽な大名旅行ではなく半島統治様式のために悪戦苦闘の荊棘の行程であったのだ。」(19)
 田中の「悪戦苦闘」の詳細は明らかではないが、田中自身は「各省大臣の『監督』といふ文字には議論したのだが、いづれにしても全般的な総督の地位が厳として確保されたことは特筆すべきである」(20)と語り、特定事務に関する各省大臣の監督権限の問題を議論したとしている。しかし実際の争点は朝鮮総督に対する内務大臣の一般的監督権限を認めるかどうかにあったと思われる。田中の立場・主張は前述の『議会説明資料』に記されているものであったことは容易に推測できる。

(2) 台湾総督府

 台湾ではアジア太平洋戦争勃発後、占領地の拡大とともに台湾と南方圏との関係に関して様々な議論がなされていた。 重要な論点になったのは、台湾は今後「大東亜共栄圏」の南(すなわち南方圏)に属すべきか、北(すなわち内地)に属すべきか、という問題であったという。この2つの見解がほぼ拮抗して台湾総督府としては何らの決定も見ないうちに、1942年9月1日に大東亜省設置が「電撃的」に発表されたとされる(21)。台湾総督府にとっては大きな衝撃であった。
 台湾総督府外事部長の蜂谷輝雄は7月から東京に出張していた。行政簡素化に関わる中央政府との折衝がその目的だったが、田中と同じように東京滞在中に内外地行政一元化問題が表面化したために、11月下旬まで滞在することになった。蜂谷の談話によれば、行政簡素化は特に重大なものではなく、それより「大東亜省設置に伴ふ台湾総督府の将来」が重大問題であった。蜂谷はこれへの対応策として「一、綜合行政を如何にするか 二、総督の権限が如何になるか 三、台湾として南方協力は如何になるか」の3点に重点を置いて関係各方面を折衝した、という(22)
 台湾総督府では、後述する9月11日の閣議決定の後、内務大臣その他の監督権について台湾総督府としての「希望事項」をまとめた文書「外地行政監督権ノ強化ニ伴フ善後措置ニ就テ」を作成した(23)
 この文書は、台湾総督に対する内務大臣その他の監督・指示の権限が決まったが、「之ガ運用ノ適否ハ台湾ニ於ケル綜合行政ノ運営ニ重大ナル支障ヲ来ス虞アルヲ以テ此ノ際監督及指示ノ意義、監督又ハ指示ノ範囲、限度等ニ関シ明確ナル方針ヲ定メ」ておく必要があるとして、6項目にわたる「希望事項」を列記している。最初の2項目は次のとおりである。

  一、 監督ノ意義ニ関シテハ従来ノ拓務省ニ於ケルト同様指揮権、訓令権ヲ含マザルモノト ス
  二、 監督上必要ナル指示トハ指揮ト異リ、台湾総督ハ指示ヲ受ケタル場合之ガ実施ニ努力スベキハ勿論ナルモ綜合行政ノ建前上他ノ止ムヲ得ザル事情ニ依リ履行シ得ザル場合アルベキ所右ハ道義的問題タルニ過ギザルモノトス

  これは、内務大臣らの監督・指示の拘束力をできる限り弱めておきたいとする総督府の立場の表明である。
 第3項は「各省大臣ノ監督及指示ハ内外施策ノ一貫ヲ必要トスル範囲竝ニ限度ニ止ムルモノトス」として、詳しい説明がなされている。監督・指示の範囲を限定すべき理由は台湾植民地支配の現状に由来するものである。

   統治ノ対象ハ四千年ノ歴史ヲ有スル漢民族ニシテ帝国ノ領土ト為リテヨリ既ニ半世紀ニ垂 ントスル今日ニ於テモ其ノ皇民化ノ程度ハ未ダ思半ニ過グルモノアル現段階ニ於テハ、尚 綜合行政ハ厳トシテ之ヲ堅持シ総督ハ統治者トシテノ最高ノ権威ヲ保持スルガ為諸政一ニ 総督ノ責任ニ出ヅルヲ絶対的ニ必要トス

 総督の権威が損なわれた場合には「台湾本島人ハ続々トシテ東京ニ陳情運動ヲ為ス」ことになり、「恩威竝ニ行フヲ要スル異民族ノ統治ハ到底其ノ全キヲ得ル能ハザルナリ」と述べている。そしてさらにこの文書は、機構改革において留意すべき点として「内外地行政ノ統一ナル字句ガ苟モ外地異民族ノ権利主張ヲ認メタルモノナルガ如キ印象ヲ与フルコトナキ様措置スベキコト」を強調する。それは、1921年の法律第3号の制定時に「内地延長主義」が唱えられたため、「本島人ノ権利主張ノ強化」が現われ、台湾統治に「重大ナル支障」をもたらした経験があるからである、としている。異民族支配の困難さを理由に総督の「統治者トシテノ最高ノ権威」を保持しなければならない、とする総督府の主張が強く打ち出されているのである。
 第4項では、上の「原則ニ基キ各省ノ監督乃至指示ノ範囲限度ヲ定ムルコト」として、各大臣の監督・指示を受ける行政事務を具体的に列挙して、監督・指示の範囲を限定している。
  第5項の「内務省移管後ニ於ケル事務ノ処理」では、人事・予算・法制に関しては従来の拓務省の事務を内務省が行なうにとどめること、法律の施行については慣例どおり台湾総督の「稟申」に基づいて内務省で立案すること、内務省連絡委員会に台湾総督府からも委員を参加させることの3点を求めている。
 第6項は「大東亜省関係ノ事務処理」と題されている。台湾を「南方圏建設」に活用することは「有効且緊要」であるばかりでなく、「飛躍的発展ノ途上ニアル帝国ノ一部トシテノ台湾ヲシテ失望セシメザル方途」でもあるので、次のような措置が必要であるとする。(1)台湾総督が南洋において施設してきた事項については今後大東亜大臣の監督・指示を受けるものとすること、(2)〔略〕、(3)大東亜連絡委員会に台湾総督府からの委員を参加させて、大東亜省と台湾総督府との事務連絡を円滑にすること、(4)南方圏と台湾との物資の交流、要員・労務者の供給、警察通報、防疫、植物検査などに関して現地機関と直接緊密に連絡できるように方途を講じること、の4点である。
 この文書からわかるとおり、台湾総督府は内務大臣の監督権が従来の拓務大臣のそれより大きなものになること、そして総督府の綜合行政が解体されることを恐れていたのである。総督の権限を維持しなければならないのは、異民族支配にとって必要不可欠だからである、とする点に力点があった。朝鮮総督府が植民地行政の内地統轄に反対する理由と同じものであったといえよう。ただし、朝鮮総督府とは異なって台湾総督府が抱える特殊な事情として「南方圏」への関与があった。台湾総督府は、中央行政機構のレベルではこの問題に関して大東亜省の監督・指示を受けるようになることを認めつつ、大東亜連絡委員会への参加、現地機関との直接折衝などによって「南方圏」に対する台湾総督府の発言権を確保したいとする意向を示したのである。
 9月中旬、台湾総督府総務長官斎藤樹が東京に赴いた(24)のは、この文書に沿って中央政府と交渉するためであったと見られる。
 

V 内外地行政一元化の決定と実態

(1)一元化の閣議決定

 1942年9月11日の閣議は、「大東亜省官制要綱」とともに「内外地行政ノ一元化ニ関スル件」その他8件を決定し、拓務省を廃止すること、朝鮮・台湾の行政事務を内務省に移管すること、また樺太については昭和18年度(1943年4月1日)から内地に編入することとした。
 この閣議決定に際しては、原案が一部修正されたことを確認することができる。
 国立公文書館所蔵の『公文類聚』第66編昭和17年巻6(官職門二、官制二、内閣二)に収録されている閣議決定の文書を見ると、「内外地行政ノ一元化ニ関スル件」「朝鮮総督及台湾総督ノ監督ニ関スル件」については、原案と閣議で修正を加えて決定された文書の2種類があることがわかる。
 「内外地行政ノ一元化ニ関スル件」のうち、中央機構に関する第1項は修正を加えられず原案どおり決定された。

  一 中央機構
  (一) 朝鮮総督府、台湾総督府及樺太庁ニ関スル事務ノ統理ハ内務大臣ノ所掌タラシムルコト
  (二) 右ノ統理事務ノ為内務省ニ管理局(仮称)ヲ新設スルコト
  (三) 管理局ノ職員ハ概ネ拓務省ノ管理局及殖産局ノ職員ヲ以テ之ニ充ツルコト
  (四) 内地、朝鮮、台湾及樺太ニ関スル関係各庁間ノ連絡ヲ図ル為内務省ニ連絡委員会ヲ置クコト

 朝鮮総督と内務大臣などとの関係に関わる第2項は、原案では次のようになっていた (以下の引用文中の傍点は水野による)。

   二 朝鮮
   (一)朝鮮総督ハ内務大臣ノ監督ヲ受ケテ諸般ノ政務ヲ統理スルコトト為スコト(一 般的監督)但シ特殊ノ事務ニ付テハ当該事務ノ性質ニ応ジ内閣総理大臣又ハ各 省大臣ノ監督ヲ承クルコトト為スコト(個別的監督)
   (二)前項ノ監督上必要アルトキハ当該大臣ハ朝鮮総督ニ対シ指示ヲ為シ得ルノ途ヲ 設クルコト
   (三)朝鮮総督ガ上奏ヲ為シ及裁可ヲ受クル場合ニハ内務大臣ニ由リ内閣総理大臣ヲ 経ルコトトスルコト

  この原案のうち(一)(二)の傍点部分が修正され、つぎのようになった。

   (一)朝鮮総督ハ内務大臣ノ統理ヲ受ケテ諸般ノ政務ヲ施行スルコト
但シ特殊ノ事務ニ付テハ当該事務ノ性質ニ応ジ内閣総理大臣又ハ各省大臣ノ監 督ヲ承クルコトト為スコト
   (二)前項ニ関シ必要アルトキハ当該大臣ハ朝鮮総督ニ対シ指示ヲ為シ得ルノ途ヲ設 クルコト

  内務大臣が朝鮮総督に対する「一般的監督」権限を持つとする原案が撤回されたことがわかる。「特殊ノ事務」に関する内閣総理大臣・各省大臣の指示も「監督」権限との関係を薄めるように字句が修正されている。しかしその一方で、拓務省設置の際に問題となった上奏・裁可に関して「内務大臣ニ由リ」内閣総理大臣を経由する旨の規定が入れられたことは、総督と中央官庁との関係に変化をもたらす可能性を示しているとも考えられる。
  台湾総督に関わる第3項は、次の原案のうち傍点部分が削除されただけで、ほとんど修正されることなく閣議決定された。

   三 台湾
   (一)台湾総督ニ対スル拓務大臣ノ監督ヲ内務大臣ノ監督ニ改ムルコト(一般的監督)
   台湾総督ハ特殊ノ事務ニ付テハ当該事務ノ性質ニ応ジ内閣総理大臣又ハ各省大 臣ノ監督ヲ承ケシムルコトトシ以テ現行ノ各省大臣ノ監督範囲ヲ拡張スルコト ト為スコト(個別的監督)
  (二) 前項ノ監督上必要アルトキハ当該大臣ハ台湾総督ニ対シ指示ヲ為シ得ルノ途ヲ 設クルコト
  (三) 其ノ他現行官制上拓務大臣トアルヲ内務大臣ニ改ムルコト

  続く第4項で樺太を内地に編入すること、第5項では「前諸項ノ外気象業務ノ如キ特殊ノ行政ニ付テハ内地、朝鮮、台湾及樺太ヲ通ジ(事情ニ応ジ大東亜地域ヲモ含メテ)一貫シタル行政機構ニ付別途考究スルコト」が決められている。
 「内外地行政ノ一元化ニ関スル件」の原案修正に合わせて「朝鮮総督及台湾総督ノ監督等ニ関スル件」第1条の原案も、次のように変更された。

   〔原 案〕内務大臣ハ朝鮮総督及台湾総督ニ対シ朝鮮総督府及台湾総督府ニ関スル事 務ノ統理ノ為監督上必要ナル指示ヲ為スコトヲ得
   〔閣議決定〕 内務大臣ハ朝鮮総督ニ対シ朝鮮総督府ニ関スル事務ノ統理上必要ナル指示ヲ 為スコトヲ得
   内務大臣ハ台湾総督ニ対シ台湾総督府ニ関スル事務ノ統理ノ為監督上必要ナ ル指示ヲ為スコトヲ得

 原案が朝鮮総督と台湾総督を並べて内務大臣の監督を受ける地位に立つものとしていたのが、修正後の決定では両総督を分けて内務大臣との関係を規定している。台湾総督が「事務ノ統理ノ為監督上必要ナル指示」を受けるのに対し、朝鮮総督は単に「事務ノ統理上必要ナル指示」を受けるだけとされたのである。
 第2条では、「内閣総理大臣及各省大臣ハ左ニ掲クル区分ニ従ヒ各当該事務ニ関シ朝鮮総督及台湾総督ヲ監督ス」として、統計に関しては内閣総理大臣、貨幣・銀行・関税に関しては大蔵大臣、大学・高等学校などの教育と気象に関しては文部大臣、米麦その他の主要食糧・農産物・海洋漁業に関しては農林大臣、重要鉱工業・貿易・度量衡・計量に関しては商工大臣、郵便・電気通信・海運(沿岸航路を除く)・航空に関しては逓信大臣、鉄道に関しては鉄道大臣、外国為替管理に関しては大蔵大臣および商工大臣がそれぞれ両総督を監督するとされ、「内閣総理大臣及各省大臣ハ朝鮮総督及台湾総督ニ対シ前項ノ事務ニ付監督上必要ナル指示ヲ為スコトヲ得」として、特定事務についての監督・指示の権限を認めている。この第2条については原案は修正されなかったようである。
  同日の閣議は、「内外地行政ノ一元化実施ノ為ニスル朝鮮総督府官制中改正ノ件」と「内外地行政ノ一元化実施ノ為ニスル台湾総督府官制中改正ノ件」も決定した。前者の原案では、「第三条〔総督ハ諸般ノ政務ヲ統理シ内閣総理大臣ヲ経テ上奏ヲ為シ及裁可ヲ受ク〕中「総督ハ」ノ下ニ「内務大臣ノ監督ヲ承ケ」ヲ加ヘ「内閣総理大臣」ヲ「内務大臣ニ由リ内閣総理大臣」ニ改メ〔下略〕」となっていたが、傍点部分を削除し、「内務大臣ノ監督」を排除することとして閣議決定した。台湾総督府官制の改正案は修正を受けなかった。
  以上のいずれの閣議決定も、原案では朝鮮総督に対する内務大臣の監督権を認めることとされていたのが、一般的監督権を認める部分をすべて削除したことがわかる。朝鮮総督府の抵抗が大きく、原案が修正されたと考えられる。台湾総督に対しては内務大臣が一般的監督権を持つと解釈できるように規定されているのとは大きな違いがある。また、特定事務に関する個別的監督権を各当該大臣に付与されることになったが、これに関わる部分でも、台湾総督に対しては「現行ノ各省大臣ノ監督範囲ヲ拡張スルコト」とされているのが注目される。台湾総督は早くから貨幣・銀行などの事務に関しては大蔵大臣、郵便・電信については逓信大臣の監督を受けることとされていたが(25)、監督範囲の拡張が図られたのである(あるいは、従来も慣例的に各省大臣の監督を受けていたのを法制的に追認したというべきかもしれない)。
  9月11日の閣議決定にもとづいて官制などの改正案が作成され、10月下旬に枢密院の審議にかけられた。政府案を検討した枢密院の審査委員会では、植民地の「特異性」が残っていることを理由に、内外地行政一元化が「綜合行政ノ円滑ナル運行ヲ妨ゲ民心ノ帰趨ニ動揺ヲ与ヘ総督ノ威信ニ影響ヲ及ボスコトナキカ頗ル憂慮」する意見が強く、政府に「再考」を促したが、政府側は一元化などの「措置ニ依ルニ非ザレバ時局ニ善処スルコト能ハザル旨固ク主張」した。このため委員会はその運用に「深甚ナル注意ヲ払」うことを要望した上で、一元化のための官制改正案を容認することにした。10月28日に開かれた本会議は、審査委員長の報告を受けた後、質疑を行なったが、顧問官南次郎(前朝鮮総督)が政府案に強く反対する意見を表明した。南は2つの理由から内外地行政一元化に反対している。第一は、朝鮮総督の地位が低下し綜合行政が阻害されると、植民地支配を危うくする恐れがあるという点である。南は、「今回ノ官制改正案ノ内容ハ事毎ニ朝鮮総督ノ綜合行政ニ対シ或ハ牽制シ或ハ抑圧シ或ハ之ニ干渉シ得ルガ如キ感ヲ内外地官民特ニ朝鮮民衆ニ与フルモノニシテ其ノ人心ニ及ボス影響甚ダ大ナリ」と述べた上で、朝鮮では共産主義・民族主義・独立主義などの「主義者ニ対シテハ特別ノ注意ヲ要スルモノアリ」とし、「総督政治ノ鉄壁ノ如キトーチカヲ破壊スルコト」を目標としている彼らにつけいる隙を与えるような一元化の措置は「異民族相手ノ特殊事情ヲ軽視スル」ものに他ならない、と政府案を強く非難している。第二は、時期が不適当かつ尚早であるという点である。南は、朝鮮の特殊性、すなわち「思想、人情、風俗、習慣、言語等ヲ異ニスル異民族」に対する支配であることを繰り返し強調した上で、「内外地一体渾然トシテ大東亜共栄圏内ノ中核ヲ為ス」には、官制の改正などより徴兵制度・義務教育・参政権の一部付与のような「具体的ナル行政問題」を優先させねばならない、と主張している。南のあげる2つの理由はいずれも、「異民族相手ノ特殊事情」という点に帰着するといえよう。このような南の反対意見に対して、東条首相は朝鮮総督も一元化に賛成していること、「戦争ノ遂行上必要ナル最小限度」の範囲で朝鮮総督に対する監督を行なうにすぎないことなどを説明したが、南はこれにも納得せず、採決に際しては起立しなかった。内外地行政一元化のための官制改正案は賛成多数で枢密院の認めるところなったが、前朝鮮総督南次郎のみならず多くの顧問官が植民地支配の「特異性」を理由に一元化に疑念を抱いていたのである。(26)
 1942年11月1日、「行政簡素化及内外地行政一元化ノ実施ノ為ニスル内務省官制中改正ノ件」「内務省連絡委員会設置制」「朝鮮総督及台湾総督ノ監督等ニ関スル件」などが勅令で定められた(27)。この日をもって拓務省は廃止され、大東亜省設置、内務省管理局新設がなされた。改正された内務省官制は、「内務大臣ハ朝鮮総督府、台湾総督府及樺太庁ニ関スル事務ヲ統理ス」(第1条)と定めている。これは従来の拓務省官制で「拓務大臣ハ朝鮮総督府、台湾総督府、樺太庁及南洋庁ニ関スル事務ヲ統理ス」(第1条)とされていたのをそのまま引き継いだものにすぎない。「朝鮮総督及台湾総督ノ監督等ニ関スル件」は、9月11日の閣議決定をそのまま条文化したものであった。従来朝鮮総督に対する監督に関しては何の規定もなかったことに比べれば、特定事務に関して各省大臣の監督権が明文化されたことは一つの変化に違いなかったが、すでに見たように朝鮮総督と台湾総督とでは扱いがかなり違っていたことに注意を払うべきであろう。内務大臣は台湾の行政事務を監督する権限を持ち、総督にそのための指示をすることができるが、朝鮮総督に対しては単に「統理上必要ナル指示」をすることができるにすぎないのである(28)

(2) 政府の法令解釈

 これら内外地行政一元化に関わる勅令について中央政府側(拓務省と内閣法制局)がどのような解釈をしていたかを見ておこう。
 現在見ることのできる文書として、拓務省が9月中に作成した「大東亜省設置、行政簡素化及内外地行政ノ一元化ニ関スル件枢密院答弁資料」(以下「拓務省答弁資料」とする)、内閣法制局が10月上旬に作成した「内外地行政一元化一問一答」(以下「法制局答弁資料」とする)の2点がある(29)。いずれも枢密院での答弁に備えて政府見解を示すために作成されたものである。想定される主な質問項目に対する政府答弁を見ると、次のとおりである。
 「内外地行政一元化ハ如何ナル必要ニ基クヤ」との質問に対して、法制局答弁資料は次のように述べている。

   今ヤ大東亜地域日ニ拡大シ、国家総力ヲ最モ有効適切ニ用ヒマスニ当リマシテ、国政ノ運 営ヲ内地ト外地ト大東亜地域ト申ス如ク、三段階ニ分ケマスコトハ今日ノ内外地行政ノ実 情カラ申シテ適当トハ申サレマセン。宜シク内外地ノ行政ハ之ヲ綜合一元化シ内地同胞ト 外地同胞トハ渾然一体ト為リ、国運進展ノ中核トシテ以テ皇運ヲ翼賛シ奉リ、大東亜建設 ノ大業ニ御奉公申上グベキコトガ、一視同仁ノ 御聖旨ニモ副ヒ奉ル所以ト考ヘマシテ、 此処ニ内外地行政一元化ヲ実施セントスルノデアリマス

 すなわち、内外地行政一元化は「大東亜地域」の拡大にもとづく時代の要請であるとともに「一視同仁」の精神にもかなうものである、というのである。後述する内務大臣訓示にも見られるように、これが一元化についての政府の公式説明であった。しかし、総督府の綜合行政に関しては、拓務省答弁資料は法制局答弁資料とはかなり異なる認識を示している。法制局答弁資料が「外地行政ノ特質ハ克ク之ヲ尊重シ、従来ノ外地ニ於ケル綜合行政ノ妙味ハ充分之ヲ保持シツツ、内外地行政ノ一元化ヲ図ッタノデアリマス」として、「外地行政ノ特質」を認める見解を示すのに対して、拓務省答弁資料は、「外地民度ノ現状ニ於テハ未ダ各各其特殊ナル事情」があるので外地の行政長官に「綜合的権能ヲ付与スルハ蓋シ止ムヲ得ザル所」として綜合行政を認めつつ、従来の植民地行政、特に朝鮮における総督政治の問題点を次のように指摘している。

  内外地ヲ通ズル行政ノ現状ヲ観ルニ各省ノ施策ハ動モスレバ内地本位ニ偏セントシ、外地 当局亦其ノ特殊性ヲ強調シ依然トシテ其ノ独立性ヲ保持セントスルノミナラズ、官制上朝 鮮総督ノ如キハ内閣各大臣ノ外ニ大権ニ直隷セル行政長官トシテ、内外地間ニ行政ノ分裂 ヲ来ス虞アル場合ニ於テモ之ヲ是正スルコト極メテ困難ナル場合ヲ生ジ従ッテ従来国内行 政ノ統合ヲ阻害シ一元的施策ニ支障ヲ来セル事例尠シトセズ

 朝鮮総督に対する監督権を持たなかった拓務省側は、このような認識にもとづいて内外地行政一元化が必要であるとしたのである。前述のように、当初内閣において朝鮮総督に対する内務大臣の監督権を設ける案が作成されていたのは、この拓務省答弁資料に見られるような認識によるものであったと考えられる。
 「内外地行政一元化ノ内容ノ大要如何」との質問には、法制局答弁資料が3点をあげて答えている。第一は、外地の行政事務に関する統理を内務大臣の権限としたことである。しかし、「内務大臣ハ朝鮮総督ニ対シテハ一般的ノ監督権ハアリマセン」としつつ、台湾総督に対しては一般的監督権、樺太庁長官に対しては一般的監督権と指揮権を持つとするが、これは従来の拓務大臣と両総督・樺太庁長官との関係と異ならないとする。その一方で、内務大臣が朝鮮総督に対して「事務ノ統理上必要ナル指示」を、台湾総督に対しては「事務ノ統理ノ為監督上必要ナル指示ヲ為スコトヲ得ル」と規定した点は、従来の拓務大臣の職務になかったものだとする。第二は、朝鮮・台湾の行政を「必要ナル範囲ニ於テ之ヲ内地ニ準ジ取扱フコト」とした点であり、ここに「特ニ今回ノ内外地行政一元化ガ具体化サレテ居ルノデアリマス」として、総理大臣・各省大臣の特定事務に関する監督権こそ一元化の中心であるとする。第三に、樺太の内地編入が決められたことをあげている。
 「朝鮮総督、台湾総督及樺太庁長官ノ地位ハ従前ト差異アリヤ」について、法制局答弁資料は、朝鮮総督については上級官庁が設けられたわけではなく、内務大臣との関係は従来の拓務大臣との関係と変わりないが、総督の上奏権については「内閣総理大臣ヲ経テ上奏ヲ為ス」となっていたのを「内務大臣ニ由リ内閣総理大臣ヲ経テ」と改めたのは、「内外地行政一元化ニ一歩ヲ進メタモノ」としている。しかし、内務大臣に「事務ノ統理上必要ナル指示ヲ為ス」権限を認めたのは、一般的監督権ではなく「事務ノ統理ト云フ職責ヲ全ウシ、其ノ統理ヲ実効アラシムル」ようにするためにすぎないとする一方で、台湾総督に対する内務大臣の一般的監督権は従来の拓務大臣のそれを同じだが、「監督上必要ナル指示」をなす権限をも認めたことが新しい点である、と述べている。
 「各大臣ノ有スル総督ニ対スル監督権ノ性質如何」との質問に法制局答弁資料は、各省大臣が行なう監督とは両総督の職権行使の実況を知るために「事務ノ報告ヲ徴シ、官吏ヲ派遣シテ実況ヲ視察セシメルコトヲ得、相手方ハ之ニ応ズベキモノデアリマス」とする。しかし、両総督に対して「個々ノ行為ニ付強ク立入ッタ命令ヲ為シ得ル」指揮権を認めたわけではない。それは両総督の「地位ニ鑑ミ」たものであり、各省大臣に「監督上必要ナル限度ニ於テ指示権」を認める程度で「必要ニシテ且充分ナル限界」と考えたからである。
 「朝鮮総督及台湾総督ノ監督等ニ関スル件第一条第一項ノ指示、同条第二項ノ指示及第二条第二項ノ指示ノ性質及効力如何」について、法制局答弁資料は、まず朝鮮総督に対する内務大臣の指示は「相手方ニ対シ希望スル意思表示」にとどまるものだとした上で、しかし勅令で定められている以上「法的意義」を持つものであるともする。

   内務大臣ハ統理上必要ナル指示ヲ為ス職権ヲ有シ、朝鮮総督ハ先ヅ之ヲ受領スベキ職務上 ノ義務ヲ負ヒ、次ニ此ノ指示ノ内容ヲ誠意ヲ以テ検討シ、能フ限リ之ヲ自己ノ行政運営上 ニ具現スル様充分ナル考慮ト努力トヲ致スベキ職務上ノ義務ヲ負ヒマス。

 法制局はこのように、総督は内務大臣の「指示ノ内容ヲ誠意ヲ以テ検討」し、なるべくそれを行政運営に反映させるよう「考慮」と「努力」をすべきだとしながら、総督は内務大臣の指示に拘束されるわけではなく、それに従わなくても構わない、「既ニ出来ル限リ其ノ指示ニ副フヤウ充分ノ考慮ヲ払ヒ努力ヲ致シマシタル以上ハ、職務上ノ義務違背」とはならないからである、との解釈を示している。朝鮮総督に対する内務大臣の指示の拘束力は最低限に抑えられたといえる。これに対して、台湾総督に対する内務大臣の指示、総理大臣・各省大臣の両総督に対する指示はそれに従うべき職務上の義務を伴うものであるとして、法制局答弁資料は朝鮮総督と台湾総督の地位の違いを明確にしている(30)

(3)内務省と朝鮮総督府・台湾総督府との関係

 1942年11月13日に開かれた地方長官会議における訓示で、内務大臣湯澤三千男は次のように述べて、内外地行政一元化の意義を強調した。

   内外地行政の一元化に関しましては、今や大東亜地域日に拡大し国家総力を最も有効適切 に用ひまするに当り、 国政の運営を内地と外地と大東亜地域との三段階に分つことは今日 の内外地行政の実情よりして適当とは申されませぬので、内外地の行政は極力之を一元化 し、内地同胞と外地同胞は、皇道の精神に基き渾然一体と為り、大東亜建設の中核として 曠古の大業に貢献せんとするものであります。而して之が事務を管掌せしむるため内務省 に新たに管理局を設置せられたのでありますから、各位に於かれましても政府の意の存す る所を体し、愈々政府の施策に協力すると共に地方行政の運営に就き充分の留意を払はれ 度いのであります。(31)

 内務省側がこのように内地と外地を「一元化」して「大東亜建設の中核」たらしめることを強調したのに対して、朝鮮総督府と台湾総督府はどのように受け止めたであろうか。
 中央政府との折衝を終えて京城にもどった田中は次のように語っている。

   拓務省の廃止あるひは改革については早くから論ぜられてゐたことでありその場合の朝鮮 施政の移管といふことは予想されてゐたことである。だから今回の拓務省廃止、大東亜省 設立に伴ひ朝鮮が内務大臣の統理を受けることになったことにも格別変った意味はない。 また特殊事務について各省大臣の監督をうけるといふことも従来の中央との緊密なる連絡 が明文化されたに止り朝鮮行政に何らの変更を加へられたものでもない。内務省移管に伴 って内鮮間の人事の交流も当然実現されることになったわけで朝鮮統治のために喜ぶべき ことである。(32)

 これまでと「格別変った意味はない」「何らの変更を加へられたものでもない」として一元化の意義を低くとらえる田中の談話は、朝鮮総督府の気分をよく表わしている。9月11日の閣議決定直後に朝鮮総督府情報課長倉島至が新聞に発表した談話もほぼ同じ内容である。総督府の公式見解と見なされる情報課長談話では、内務省への移管は「拓務大臣の統理が内務大臣の統理に移行したに止まり内容において従前と何ら異るところはない」とし、特殊事務についての各省大臣の監督も、「戦時下当然の必要により従来実際に行はれつつあった行政上の慣習が成文化せられたるものに過ぎ」ないとした上で、「もとよりこれによって朝鮮総督の地位ならびにその綜合的行政には実質的になんらの変更はないのであって今後の朝鮮としては内地と緊密な連絡の下にますます綜合行政の妙味を発揮戦勝完遂に邁進すべきである」としている。(33)
 内外地行政一元化が決定された後も、朝鮮総督府はこれを重大な改革とは考えなかった。10月27日の臨時道知事会議は、閣議で内外地行政一元化が決められた後、朝鮮総督府の重要会議として最初に開かれたものであったが、訓示を行なった総督小磯国昭は、会議開催の主な目的を食糧対策、一般生産力の拡充、徴兵制度施行準備の3つの課題に対する方針を明確にすることにあるとするだけで、内外地行政一元化については全く言及しなかった。(34)
  内外地行政一元化について朝鮮で書かれた論文も、総督府側の気分を反映している。『朝鮮行政』(朝鮮行政学会発行)1942年12月号に掲載された松岡修太郎(京城帝国大学法文学部教授)の「行政簡素化と朝鮮行政機構」は、外地の内地編入は行政機構・裁判所・法制が内地の統治方式に一元化されなければ実現したとはいえないとした上で、「今次の内外地行政の一元化は、かくの如き外地の内地編入を直に意図し実現したものではな」い、と論じた。同誌1942年11月号と12月号に連載された杉野正「内外地行政機構改革の意義」も、朝鮮総督に対する内務大臣の一般的監督権が認められなかったことを強調して、「朝鮮に付いては行政一元化の意義は極めて乏しい」、「宮中席次高き親任の総督」が率いる「総督府が一地方庁となるが如きは考へられない」、「外地統治の特殊性が『内地と同様に取扱ふを目途と』するといった一片の閣議決定に依り俄に変質するが如きことはあり得ない」と述べて、植民地支配の特殊性、総督の特別な地位を理由に植民地行政の内地化を否定している。
 他方、台湾総督府側は当初かなり危機感を抱いていたようである。
 それは、台湾が「内地化」されることによって総督・総督府の地位が低下すること、また大東亜省の新設によって南方への関与が制限されることに対する危機感であった。
 9月28日、東京から台北に帰任した総務長官斎藤樹は次のように述べている。

   総督行政の監督を内務省が行掌するのみならず必要な範囲に於て各省大臣が監督且つ命令 を発し得る方途が設けられることは明らかに内外地行政の一体性の実を挙げる為の総督行 政の○○〔2字不明、漸進?――水野〕的転換を齎すものと言ふ可く戦時下台湾の画期的 転換が眼前に迫って居ることは事実である。(35)

 この談話には、台湾総督府の綜合行政が転換することもやむを得ないとする認識が表われている。斎藤は、総督府外事部が廃止されなかったことをもって、総督府の南方関与は従来どおり認められたとしているが、内外地行政一元化によって台湾総督の地位が変化する可能性を受け入れているかのようである。
  しかし、一元化実施以後も東京にとどまっていた外事部長蜂谷輝雄は総務長官とは異なるニュアンスの談話をしている。11月25日に台北に帰った蜂谷は、「総督府の綜合行政は最初一部で懸念した向きもあったが、綜合行政は飽くまでも堅持する方針が明らかにされ確認され」、総督の権限も縮小されなかった、と述べている。蜂谷は、将来台湾の「皇民練成」が完成した場合には「内地の一員として内地行政の延長が実現するであらう」とも言うが、力点は綜合行政の堅持にあった(36)
 台湾総督府側の認識を表わすものとして、『台湾経済年報』昭和18年版の第1章「昭和17年台湾政治経済の概観」(台北帝国大学教授楠井隆三執筆)を見ておこう。総督府の官僚も多数執筆しているこの『台湾経済年報』は台湾総督府の立場を代弁するものといってよい。楠井は、台湾総督府に関する行政事務の内務省移管は法制的に見ると「台湾自体としては、殆ど何等の変革でもない」(60頁)とした上で、その意義は政治的・経済政策的側面にこそ現われると述べる。すなわち、一元化は「従来の外地をして、可及的迅速に、且つ徹底的にその『外地性』から脱却せしめて『内地性』を取得せしめやうとする、皇国々政の要請を意味する」ものであり(61頁)、そのような要請に応じるためには「外地住民の皇民化」と「外地の産業ならびに経済全体の内地化」を実現しなければならない(61-63頁)、と論じる。楠井は、一元化にともなって台湾の行政機構が直面する問題としては「綜合的政治の将来」と「南方圏建設に対する協力」があるとし(65頁)、前者に関しては、綜合行政は概ね認められたとはいえ、「この概ねの範囲を次第に縮小しつゝある」として、綜合行政の縮小がやむを得ないものと認めた上で、「台湾の全生活の統体性の持続」や「外地の特殊事情」をも考慮しなければならない、と条件を付している(69頁)。後者の南方圏関与については、従来台湾総督府が行なってきた南方工作は今後は台湾独自の立場からでなく、大東亜省や現地軍政機関の規制の下になされるべきであるとしている(73頁)。
 総じて、台湾総督府とその関係者は、総督府の綜合行政が変わっていくこと、南方関与が中央政府(大東亜省)によって規制を受けることもやむを得ないと受け止めたように思われる。それゆえにこそ、「大東亜共栄圏」建設において台湾および台湾総督府が果たす役割を確保するためには、台湾住民のいっそうの「皇民化」を謳いつつ、中央政府との緊密な連携を強調することが必要とみなしたのである。
 それでは、中央政府と朝鮮総督府・台湾総督府との間の行政事務は具体的にはどのように変化したであろうか。敗戦まで3年弱の年月しか残されておらず、情報統制も厳しく行なわれた時期であったので、それを検討しうる材料はほとんど見出せない。ここでは現在見ることのできるわずかな資料にもとづいて考えておきたい。
 内外地行政一元化がなされた後、内務省側が朝鮮・台湾両総督府に対する規制を強めようとしたことが資料から確認できる。11月中に内務大臣は関係各省の大臣あてに次のような文書を送っている。

   書類取扱方ニ関スル件
   今般内務省官制改正相成候ニ付テハ爾来〔爾今の誤り?――水野〕貴庁ヨリ朝鮮総督府及 台湾総督府ニ対シ交渉ヲ要スル事項ニ付テハ総テ当省ニ御照会相成様致度為念此段申進候 也
   追テ貴庁監督ニ属スル事務ニ付テモ当省ヲ経由相成様致度申添候(37)

  内務省は、中央政府各省にこのような要請をする一方、朝鮮総督・台湾総督に対しても11月10日付で通牒を出して、「爾今貴庁ヨリ内閣、宮内省、各省及会計検査院ニ対シ交渉ヲ要スル事項ニ付テハ総テ当省ニ照会又ハ当省ヲ経由相成度為念此段及通牒候也」(38)として、総督府と各省との交渉を内務省が仲介・監督する意思を示した。
 さらに内務省は、拘束力の弱い「指示」しかできない朝鮮総督府に対しても規制の強化を図ったようである。1943年7月に、内務次官から朝鮮総督府政務総監への「照会」という形で、次のように総督府の決定する重要施策に関しては事前に内務省に連絡するよう特に要請しているのが見られるからである。

   重要施策ノ連絡ニ関スル件
   内外地行政一元化ノ趣旨ニ鑑ミ左記事項ニ関シ貴府方針決定ノ際ハ之ガ外部発表前予メ当 省ニ連絡相成様致度依命此段及照会候
       記
  一、 法律ノ制定ヲ必要トスル事項
  二、枢密院ニ御諮詢ヲ必要トスル事項
     例、教育制度ノ変更、総督府主要部局ノ新設廃止等
  三、内地ニ重大ナル影響アル事項
     例、米麦其ノ他重要食糧品価格ノ決定変更
  四、右ノ外統治上特ニ重要ナル事項(39)

 これらの事項の多くは、従来も慣例としては朝鮮総督府と中央政府(内閣、拓務省、内閣法制局など)との間で協議の上決定されてきたと見られるが、新たに植民地行政を担当することになった内務省は慣例を文書化することによって規制を強めようとしたのであろう。
 これに対し、朝鮮総督府側は内務次官の要請に従って実行すると回答するとともに、逆に内務省側に対して「各省ニ於テ重要法令其ノ他重要政策ニシテ朝鮮ニ重大ナル影響ヲ及ボスモノニ付決定ヲ為ス場合ニ於テハ同様ノ趣旨ニ依リ予メ当庁ニ連絡相成様取計ハレ度」いと要請している(40)。前年5月に朝鮮への徴兵制実施が総督府への事前予告なく「頭ごしに」中央政府で決定・発表された(41)ことにかんがみて、同様の事態が生じることがないよう、総督府が内務省に公式に要請したものと考えることができるが、それと同時に、朝鮮総督府は内務省の一方的「監督」を受けるのではなく、内務省と同格あるいはそれ以上の官庁として存在していることを示そうとしたように思われる。
 

おわりに

 以上検討したように、1942年秋に行なわれた内外地行政一元化は、中央行政機構のレベルで拓務省の廃止、朝鮮・台湾に関する行政事務の内務省移管を実現したに過ぎないものであった。中央政府側は朝鮮総督に対する監督権を設ける意図を持っていたにもかかわらず、朝鮮総督府側の抵抗によって実現しなかったことを確認することができよう。
 したがって、山本有造がいうように「朝鮮・台湾両総督は並列して本国政府の監督・指示に従うことにな」ったと見なすことはできない。確かに「準内地化」がある程度進んだとはいえようが、その程度はそれほど大きなものではなかったのである。
 では、内外地行政一元化の措置にもかかわらず、特に朝鮮の場合、植民地行政の「内地化」がそれほど進まなかったのは何故だろうか。朝鮮と台湾とを比較しつつ考えてみたい。
 第一に、一元化以前の両総督府と中央政府との関係がかなり異なるものであったことである。中央の監督権が法令上も規定されていた台湾総督府と、それに関する規定がなく、むしろそれを否定する見解が強かった朝鮮総督府とでは、一元化においても異なる扱いがされた。朝鮮総督府の側が台湾総督府との違いを強調することによって中央政府の監督権を否定する主張を繰り返したのに対し、台湾総督府は法令上・実態上の従来の関係を認めざるを得なかった。また、台湾の場合、法制上の「内地延長主義」が相当進展していたことも台湾総督府の立場を強く規制したであろう。
 第二に、台湾総督府独自のものとして南方関与に関わる問題がある。台湾総督府は自らの存在を示すものとして南方関与を行なってきたが、大東亜省が設置されてしまうと、それを維持するためには中央政府(大東亜省)との緊密な連携、あるいは中央政府の統制下への組み入れを強調せざるを得ないという立場に立つことになった。台湾総督府が一元化にそれほど抵抗しなかったのは、このような事情があったと思われる。もちろんその場合でも、朝鮮総督府と同様に綜合行政の維持は台湾総督府の主張であったが、それもあまり強く主張されなかったように思われる。朝鮮総督府の場合も、満洲国への関わりが問題になりうるが、形式上は独立国家である満洲国およびそれを操縦する関東軍との関係を主とするものであったので、この問題について中央政府との連携が強調されることはなかった。
  第三に、両総督府が掲げる「外地の特殊事情」である。異民族に対する植民地支配であるということが「外地の内地化」を実現し得ない最大の理由であった。両総督府はこれをよりどころとして綜合行政の維持、総督権限の保持を主張したが、中央政府もこの問題を重視する点で立場の違いはない。前述の拓務省答弁資料は、「内外地行政一元化ノ外地民心ニ及ボセル影響如何」との質問を設けて、次のように答えている。

   今次大東亜省ノ創設ト共ニ実施セラルベキ内外地行政ノ一元化ニ関スル閣議決定ハ各外地 ノ民心ニ相当ノ衝動ヲ与ヘタル所ナルモ戦時下帝国ノ国内態勢整備上寧ロ時宜ニ適シタル 所ト為シ概ネ平静ヲ持シツツアリ

 このように状況は「平静」としながら、一方で朝鮮・台湾に在住する内地人には「内務大臣ノ統理及各省大臣ノ監督ト総督ノ地位トニ関聯シ兎角ノ論評ヲ試ムル者アリ」とも述べる。朝鮮人・台湾人の反応については、次のように記している。

   朝鮮人及本島人側ニ於テハ一部不逞ノ徒輩ヲ除キ今回ノ措置ヲ以テ内鮮台一体化ノ飛躍的 前進ニシテ之ニ依リ外地同胞ノ皇民化ハ急速ニ促進セラルルモノト為シ概ネ賛意ヲ表シ居 ル状況ナルモ中ニハ将来ノ総督政治ノ廃止乃至府県行政ノ実施等行過ギタル観測ヲ為ス者、 或ハ参政権ノ付与其ノ他内鮮台間各種差別待遇ノ撤廃等ノ利己的動機ニ基ク観測ヲ為ス者 アルヤニ予想セラルル処ナルヲ以テ政府トシテハ此等ノ指導誘掖ニ関シ格段ノ留意ヲ為シ 遺憾ナク善処スル所存ナリ

 朝鮮総督府・台湾総督府と同じように中央政府もまた、「総督政治ノ廃止」「各種差別待遇ノ撤廃」などを求める形で朝鮮人・台湾人の民族的要求が表面化することを恐れていたのである。実際に参政権その他に関わる差別の解消を要求する声が一元化措置に関わって出ることはなかったが、これらに対する潜在的な要求、さらには日本の植民地支配そのものに対する抵抗の意識を軽視しえないことを当局は認識していた。このような懸念が、植民地行政の完全な「内地化」をためらわせる最も大きな原因であったといえよう。両総督府が主張するように、植民地支配を安定させるためには「総督ノ絶対無二ノ権力」「統治者トシテ最高ノ権威」が今もなお必要不可欠であるとするのが、中央政府・植民地支配機構の双方に共通する見方であった。
 結局のところ、内外地行政一元化は、冒頭で述べた「外地の内地化」の3つのレベルに沿っていうなら、中央行政機構の変化にとどまるものであり、 「綜合行政機構」としての総督府の解体や法域の統合、さらには「内地人」と「外地人」との間の差別の解消をもたらすものではなかった。「外地人」の皇民化を強化・深化せよという掛け声をいっそう強めることになった点で、一元化が植民地支配の強化をもたらすものであったこともまた間違いのないところであるが、「内地延長主義」の実現を意味するものであったとはいい難い。内外地行政一元化に続いて戦争末期に行なわれた朝鮮・台湾在住民の「政治処遇改善」を検討することが今後に残された課題であるが、本稿の検討から、日本の植民地支配、特に朝鮮に対する支配は、戦時期においても「特別統治主義」の色彩を色濃く残すものであったと結論づけることができよう。
 



(1) 『第86回帝国議会衆議院議事速記録』第15号附録、1945年3月27日。

 (2) 内外地行政一元化が実施された当時の論文として、以下のものがある。

 山崎丹照「所謂内外地行政一元化の問題」『警察研究』第13巻第10号、1942年10月。

 同 「朝鮮総督の地位」『警察研究』第14巻第1号、1943年1月。

同 『外地統治機構の研究』高山書院、1943年。

 磯崎辰五郎「政府と朝鮮総督及び台湾総督」『公法雑誌』第9巻第4号、1943年4月。

 松岡修太郎「行政簡素化と朝鮮行政機構」『朝鮮行政』第21巻第12号、1942年12月。

 杉野正「内外地行政機構改革の意義」(一)(二)『朝鮮行政』第21巻第11号・第12号、 1942年11月・12月。

 (3) ちなみに、朝鮮併合初期寺内正毅総督の時期の「武断政治」の特徴について、小林英 夫は、 「日本国内とは異なり在朝日本人、外国人を朝鮮人と『平等』に扱い、共通の 法体系の下で規制した点にある」とし、「寺内の『植民地専制主義』の根底にあった 政策的目標は、〔中略〕朝鮮で経済活動をする日本人、外国人を朝鮮人に『平準』化 して統制する『朝鮮化』を推進することであった」(同編『植民地への企業進出―― 朝鮮会社令の分析――』柏書房、1994年、7頁)と述べている。会社令などの経済政策 を分析した研究であるので、小林の主張が植民地政策全体についてなされているとは いえないが、特別統治主義の側面を「朝鮮化」と名づけて、日本人・朝鮮人・外国人 の「平等」「平準化」を強調している点に筆者としては疑問を感じざるを得ない。朝 鮮在住の日本人と朝鮮人との間には、法的身分(戸籍など)や教育その他の面できわ めて大きな格差があったことを軽視していると思われるからである。

 (4) 山崎丹照、前掲『外地統治機構の研究』16頁。

 (5) 外務省条約局編『外地法制誌』第2巻、1957年(復刻版、文生書院、1990年)36-42頁。法律第3号施行後、内地法の施行が増え、律令制定は逆に減少した。1年間の平均件数で1906年までは律令制定12.3件、法律施行4件、1906年から1921年までは律令制定4.4件、法律施行2件だったのが、1921年から1945年までの期間には律令制定2.8件、法律施行8件となり、内地法本位がかなりの程度進展したことを示している。同前、81頁。

 (6) 同前、第2巻、131―132頁。

 (7) 拓務省設置の経緯については、山崎前掲書、24-40頁。山崎は拓務大臣の監督権については「何等帰一したる解釈なしといふのが其の実際であった」とする(同前、39頁)一方で、「朝鮮総督は、従来拓務大臣の監督を承けなかったものと解せざるを得ない」(山崎、前掲「朝鮮総督の地位」81頁)とも述べている。

 (8) 「拓務省廃止拓務院設置案」『昭和財政史資料』第1号第112冊「行政整理(三)」(マイクロフィルム・リール番号49)。この大蔵省案がどの程度の範囲で議論されたかは明らかでない。なお、この資料は平井廣一氏より提供を受けた。

 (9) 「樺太行政制度改正案」『昭和財政史資料』第1号第112冊「殖民地」(マイクロフィ ルム・リール番号49)。

 (10) 以下、大東亜省設置問題については、外務省百年史編纂委員会編『外務省の百年』(下)原書房、1969年、684-757頁による。

 (11) 拓務省の組織は、1939年時点で大臣官房のほか、朝鮮部、管理局(台湾総督府・樺太庁・南洋庁に関する事務など)、殖産局(朝鮮以外の外地の産業・交通などに関する事務、東洋拓殖株式会社・台湾拓殖株式会社・南洋拓殖株式会社の監督事務)、拓務局(移植民および海外拓殖事業に関する事務)の1部3局からなり、臨時の部局として拓殖調査部(1939年7月設置)があった(拓務省『拓務要覧』昭和14年版、1940年、7−9頁)。1940年11月に拓務局が満洲を主たる担当地域とする拓北局とその他の地域を担当する拓南局とに分離され、1部4局となった(1940年11月12日勅令第760号「拓務省官制中改正」政府『官報』第4157号、1940年11月13日)。

 (12) 前掲『外務省の百年』(下)692―695頁。

 (13) 同前、701―703頁。

 (14) 同前、703―705頁。

 (15) 同前、707―708頁。

 (16) 「第79回帝国議会説明資料」審議室作成分(復刻版『朝鮮総督府 帝国議会説明資料』第7巻、不二出版、1994年、35―36頁。

 (17) 『大阪毎日新聞 朝鮮版』1942年8月20日。

 (18) 『大阪毎日新聞 朝鮮版』1942年9月20日の記事は次のように伝えている。「滞京五、六日で帰るつもりだったのが間際になって大東亜省の問題が勃発したため約一ヶ月も延びてしまった」。

 (19) 『大阪毎日新聞 朝鮮版』1942年9月20日。

 (20) 同前。

 (21) 台湾経済年報刊行会編『台湾経済年報』昭和18年版、国際日本協会(東京)、1943年、55-57頁。

 (22) 『台湾日日新報』1942年11月26日。

 (23) 国立国会図書館憲政資料室所蔵佐藤達夫文書1696-行2「大東亜省、内外地一元化」に含まれる。作成者名、日付が記されていないが、台湾総督府作成の文書であることは、「台湾総督府ノ希望事項」と書かれていることから明らかであり、内容から見て9月11日の閣議決定後に書かれたものと推定される。

 (24) 『台湾日日新報』1942年9月29日。

 (25) 明治29年勅令第86号および明治30年勅令第9号(前掲『拓務要覧』6頁、前掲『外地法制誌』第2巻附録209頁、211頁)。

 (26) 以上は、 国立公文書館所蔵『枢密院会議筆記』1942年10月28日「行政簡素化実施ノ為ニスル内閣所属部局及職員官制改正ノ件、他二九件」による。この案件に関する審査委員会の記録は欠落しているため、委員会での議論は本会議における審査委員長の報告による。

 (27) 条文は、前掲『外地法制誌』第2巻、226―227頁。

 (28) なお、内外地行政一元化の措置にともなう中央行政機構側の変化として拓務省朝鮮部の廃止をあげることができる。朝鮮部は、内外地行政一元化が決まる前に、行政簡素化の一環として廃止されることになっていた。1942年8月6日の閣議に提出するために拓務省が作成した「拓務省官制中改正ノ件」(『公文類聚』第66編昭和17年巻34(官職門三十、官制三十、大東亜省一)所収)によれば、拓務省の機構を改革するため、朝鮮部は廃止され、朝鮮総督府に関する主要事務は台湾総督府、樺太庁、南洋庁と同じく拓務省管理局が扱うこととされている。同月11日の閣議で拓務省を含む各省の行政簡素化案大綱が閣議決定されたが、その後拓務省官制が改正される前に、拓務省そのものの廃止、内務省管理局への移管が決まり、11月1日の内外地行政一元化の実施とともに朝鮮部も消えてしまうことになったのである。拓務省朝鮮部の廃止によって、中央行政機構のレベルでそれまで別格の扱いを受けてきた朝鮮に関する行政事務は台湾などと同じく内務省管理局の担当になったが、朝鮮部の廃止そのものは内外地行政一元化の一環として立案されたものではなかったのである。

 (29) いずれも、国立国会図書館憲政資料室所蔵佐藤達夫文書1692-行2「大東亜省・内外地一元化」のファイルに綴られている。「枢密院ニ於ケル質疑項目」(17.9.17)と題する文書は拓務省の用紙にタイプ印刷されたものだが、目次があるだけで本文がなく、その次に綴られている「大東亜省設置、行政簡素化及内外地行政ノ一元化ニ関スル件枢密院答弁資料」がその一部と見られる。この文書は、大東亜省設置、行政簡素化に関しては拓務省が、内外地行政一元化については主に法制局がそれぞれ担当して作成することになっていたが、法制局担当分は目次があるだけで、「法制局ニ於テ執筆中ニシテ本答弁資料ノ作成ニハ間ニ合ハザリシ為之ヲ欠除ス」と記されている。同じファイルに綴られている「内外地行政一元化一問一答」(17.10.5 法制局)が、拓務省答弁資料作成時にはまだ執筆中だった法制局担当分と見られるので、法制局答弁資料も「大東亜省設置、行政簡素化及内外地行政ノ一元化ニ関スル件枢密院答弁資料」の一部ということになるが、便宜上別の文書として扱うことにする。佐藤のファイルには「内外地行政一元化一問一答(改訂新稿)(17.10.5 入)」と題された文書も見られる。当時法制局第三部長を務めていた入江俊郎が作成した草案と思われるが、法制局の公式見解を示した上記の文書と同文である。なお、改訂される前の文書は見当たらない。

 (30) 山崎丹照、前掲「朝鮮総督の地位」も同様の解釈を示している。なお、佐藤達夫のファイルには、「朝鮮総督ニ対スル指示ノ効果(17.9.30 刷)」という文書も綴られている。表題の下に手書きで「山崎案」と書き込みがあるので、法制局参事官だった山崎丹照が作成したものであろう。この文書は、法制局答弁資料の基礎となる研究の一部と見られるが、朝鮮総督の地位に関して次のように論じているのが注目される。すなわち、朝鮮総督が内閣総理大臣・各省大臣の個別的監督権を受けることになったからといって、「天皇ニ直隷スル最高ノ行政官庁タル地位」には何の変化もない。しかし憲法上天皇輔弼の責任があり最高の行政官庁の地位を持つ各省大臣と朝鮮総督とではその地位に違いがある。総督は国務大臣ではなく、「絶対的ニ最高ノ行政官庁タラシムルカ否ヤトイフコトハ、全ク時ノ政策ノ決スル所デア」るからである、と山崎は論じている。宮中席次では他の大臣より上席が与えられていた朝鮮総督は、各省大臣より高い地位にあるとそれまで考えられてきたが、この文書に見られるように、憲法上に規定を持たない総督の地位は「時ノ政策」によって変更することができるとする主張が現われたこと自体、「外地の内地化」気運を示すものであろう。 山崎は雑誌に発表した論文(前掲「朝鮮総督の地位」)でも同じ趣旨のことを論じているが、そこでは総督の地位は「官制の定め方」によって変更し得るものとして、文言を柔らかくしている。

 (31) 大霞会内務省史編集委員会編『内務省史』第4巻、大霞会、1971年、528―529頁。

 (32) 『大阪毎日新聞 朝鮮版』1942年9月19日。

 (33) 『大阪毎日新聞 朝鮮版』1942年9月13日。

 (34) 『朝鮮総督府官報』第4724号、1942年10月28日。翌1943年4月6日の道知事会議における総督訓示、政務総監訓示も一元化には触れていない。同前、第4852号、1943年4月7日。また、戦後に書かれた小磯の自伝(『葛山鴻爪』丸の内出版、1968年)でも、朝鮮総督在任中の治績として朝鮮人官吏の登用、内地渡航制限の撤廃、朝鮮人の政治参与(李珍鎬の貴族院議員勅選)などを記しているが、内外地行政一元化には一言も触れていない。政務総監として中央政府と折衝した田中武雄も戦後の回顧談で、小磯総督時代の「最も顕著な施策」として義務教育の実施、徴兵制度の実施、参政権の実施の「三大懸案」が強力に推進されたと述べているが、一元化問題には言及していない(田中武雄「小磯総督時代の統治概観」財団法人友邦協会『朝鮮近代史料研究集成』第3号、1960年)。

 (35) 『台湾日日新報』1942年9月29日。

 (36) 『台湾日日新報』1942年11月26日。

 (37) 内閣、大蔵、文部、農林、商工、逓信、鉄道各省大臣宛内務大臣申進「朝鮮総督府及台湾総督府ニ対スル交渉ハ内務省ニ照会方ノ件」。宮内大臣、企画院総裁、外務、陸軍、海軍、司法、厚生、大東亜各大臣宛内務大臣申進「朝鮮総督府、台湾総督府及樺太庁ニ対スル交渉ハ内務省ニ照会方ノ件」、および枢密院議長、会計検査院長、行政裁判所長官、貴衆両院議長宛内務大臣申進「朝鮮総督府、台湾総督府及樺太庁ニ対スル交渉ハ内務省ニ照会方ノ件」も同内容であるが、これらは内閣総理大臣などと違って総督に対する監督権を持たない官庁であるので、本文引用中の「追テ」以下の文章がない。これらの「申達」は、内務省管理局『外地統理提要』昭和19年1月、18-20丁、に収録されている(外交史料館所蔵外務省記録A-5-0-0-1-1『本邦内政関係雑件 植民地関係』第2巻、所収)。

 (38) 朝鮮総督、台湾総督宛昭和17年11月10日発管第5号内務大臣通牒「内閣、各省等ニ対スル交渉ハ内務省ニ照会方ノ件」『外地統理提要』21丁。

 (39) 朝鮮総督府政務総監宛昭和18年7月5日附発管第178号内務次官照会「朝鮮総督府ニ於ケル重要施策ノ連絡ニ関スル件」『外地統理提要』25丁。

 (40) 内務次官宛昭和18年7月14日附総秘第84号朝鮮総督府政務総監回答「重要施策ノ実施ニ関スル件」『外地統理提要』25丁。

 (41) 宮田節子『朝鮮民衆と「皇民化」政策』未来社、1985年、97頁、101頁、127頁など参照。

 



 水野直樹書いたもの一覧へ

 水野直樹トップページへ

 人文研のホーム・ページへ