『民族文化教育研究』(京都民族文化教育研究所)第1号、1998年6月、収録
(引用の場合は、掲載誌によってください。発行所連絡先は末尾に記しています)

 
京都における韓国・朝鮮人の形成史
水野直樹


1 はじめに

  戦前の京都に朝鮮人が住むようになった経過について、今日は考えてみたいと思います。
 私自身、京都に生まれ育ち、今も京都に住んで仕事をしていますので、京都に住んでおられる韓国・朝鮮人の歴史や現状に関心を持っています。ただ、それを専門的に研究しているわけではありませんので、不充分な点があるかと思いますが、ご了解ください。
 
 私が客員研究員として関わっている財団法人・世界人権問題研究センターでは、研究第三部において「定住外国人の人権」を研究しています。定住外国人の多数を占める韓国・朝鮮人の人権問題を考えるには、歴史的な経緯を理解しておかねばならないという考えから、人権問題研究センターでは、京都における朝鮮人の歴史に関する資料を調査・収集して、多くの方々に提供することを活動の一つとすることになりました。今年の六月に、その資料集の第一冊として、戦前府庁の中に事務所が置かれていた京都府社会事業協会という団体が発行していた月刊雑誌『社会時報』から朝鮮人に関わりのある記事や論説を抜き出して、復刻という形で刊行しました。

 それ以外にも、府庁文書(府立総合資料館所蔵)に含まれる関係文書、さらには『京都日出新聞』(『京都新聞』の前身)などの新聞から関係記事を収集するという作業を続けています。これらをもとにして、取り敢えず戦前の時期に京都に住んでいた朝鮮人の歩み・生活などを明らかにすることができればよいと思っています。今日お話するのも、人権問題研究センターでの作業の一部をもとにしています。
 
 まず言葉づかいの問題についてお断りしておかねばなりません。ここでは、「朝鮮人」という呼称を使うことにします。というのは、戦前は植民地である朝鮮半島は「朝鮮」と呼ばれていましたし、朝鮮に戸籍がある人を朝鮮人とすることによって日本人との間に区別・差別を設けていました。ですから、歴史的用語、法律上の用語として戦前に関しては「朝鮮人」を使うのが、混乱を避けるためにはよいと私は考えています。この点、ご了解ください。

 ところで、京都だけでなく、戦前の日本に住んでいた朝鮮人の歴史を考えるにあたっては、二つの視点が不可欠ではないかと思います。それらの人々がどのようにして日本に来ることになったか、日本でどのような生活をしていたのか、仕事はどのようなものだったか、などを検討することは言うまでもないことですが、欠かしてならない視点として、一つには民族の文化、生活を守る・育てるということがどのようしてなされてきたかという点があげられるでしょう。民族運動とか労働運動という形ではなくても、生活に根拠を置いて文化を守り育てるということがなされてきたことを見落とすべきではないと思います。それは、日本に住むようになって、子供も生まれると、その教育をどうするか、というような現実的な問題として生じてくることがらでした。

 第二は、地域社会の中の構成員として位置づける視点が必要ではないかと思います。日本社会の中に居住・生活するわけですから、それとの間に様々な面での交渉が生じます。仕事を求めるということからしてそうです。京都という地域社会が必要とする労働力の一部を朝鮮人がになっていたわけです。「地域社会の構成員」ということをあまり強調すると、「同化」に誘導するものだと言われるかもしれませんが、現在の在日韓国・朝鮮人の問題を考えるには、やはりそのような視点が必要だと思います。強調しすぎるのは注意すべきでしょうが、歴史を考える上でも「地域社会の構成員」という観点は忘れてはならないと思います。

 このような見方から、戦前の京都における朝鮮人の形成史についてお話しようと思います。時間的余裕もありませんので全体像にはほど遠いものですが、お許しください。
 

2  「併合」前の朝鮮人労働者

 一九一〇年の「韓国併合」によって、朝鮮半島は日本の完全な植民地になるわけですが、在日朝鮮人の形成も、それ以後のことと考えられてきました。確かに、万の単位で数えられる人々が日本に移り住むようになったのは、一九一〇年代のことですから、併合後に在日朝鮮人が形成されていった、特に定住する人々が多くなった、ということができます。土地調査事業や産米増殖計画などの日本の植民地政策との関連で在日朝鮮人の形成を考えることも重要です。

 ところが、最近の研究によれば、併合以前、特に一九〇五年の「保護国化」以後、西日本の各地に朝鮮人労働者が相当数来ていたことが明らかになっています(小松裕・山脇啓造・金英達編『「韓国併合」前の在日朝鮮人』明石書店、一九九四年)。九州の炭坑地帯や各地の鉄道工事に朝鮮人が従事していたことが新聞の記事などからわかってきたのです。それらの人々を「在日朝鮮人」としてとらえることができるかは疑問です。むしろ現在の「外国人出稼ぎ労働者」と同じような性格のものと考えるのが適当かもしれません。とはいっても、併合前に朝鮮人労働者が日本に来ていたことの背景には、日本の朝鮮侵略があったことを見落とすべきではないと思います。労働者の募集が、朝鮮半島に進出して鉄道工事などを請け負っていた土木会社やその下請け業者などによってなされていたと思われることからも、それは言えます。

 では、京都ではどうだったのでしょうか。併合以前にどのくらいの朝鮮人が来ていたのでしょうか。

 京都には、一九〇〇年前後に留学生として来ていた人がいました。卒業生名簿に最初に朝鮮人の名前が出ているのは、立命館大学の前身である法政専門学校の一九〇二年の卒業生名簿です。ということは、ちょうど一九〇〇年頃に入学したと考えられます。一九三〇年代半ばの京都在住朝鮮人に関する調査報告でも、日本での居住歴が三〇年以上になっている人がいると記されていますから、一番早い人の場合、一九〇〇年代に日本にやって来て、そのまま住みつづけていたといえます。

 京都にやってきた朝鮮人がどんな仕事に従事していたかがわかるのは、一九〇七年のことです。

 明治時代の京都府では、京都市から舞鶴まで鉄道を敷こうという計画がありました。民営鉄道である京都鉄道が、一八九九年までに京都市から園部まで鉄道を完成させていましたが、日露戦争の後、政府の鉄道国有化方針にしたがって一九〇七年に買収されました。園部から綾部までの鉄道工事は、その前後に始められましたが、そこに朝鮮人労働者が雇われていたことが新聞記事からわかります。

 『京都日出新聞』の一九〇七年六月三〇日付けに、次のような記事が見えます。〔 〕内は、私が付け加えた部分です。

 「韓国労働者使役  目下工事中なる園部綾部間官設鉄道敷設の為使用せる人夫中韓国人四五十名加はり居れるが右は同工事請負人稲葉組に於て韓国釜山附近の村落より郡守等の斡旋にて傭入れたる労働者にして賃銀は日本人夫と高低なく最下一日六十銭内食費に二十四五銭差引き手取り三十四五銭に相当する由而して彼等は頗る規律正しく一定の時間労働して少時休憩喫煙し再び一定時間は専心労働に従事する等日本人夫の不規律なるに比し大に優れるものあり加之ならず〔のみならず〕日本人の如く親分乾児〔こぶん〕の関係ならざる為雇主に於ても極めて便利なりと」

 この記事によれば、四〇?五〇人の朝鮮人が請負人に雇われ、日本人と同じくらいの賃金をもらっていたこと、労働者として高く評価され歓迎されていたことがわかります。しかし、本当にこの記事の通りだったかどうかは、疑問です。というのは、『萬朝報』同年八月一四日には「韓国人夫逃亡」、翌一五日には「果して然る乎」という記事があります。これらによれば、朝鮮人労働者二〇名が「日本工夫の虐待」に加えて「警官も亦常に日本工夫に左袒〔味方〕」したために逃亡したと報じられています。「労役に堪へ兼ねたる為」とも書かれていますから、仕事もきびしく、日本人からも差別的な扱いを受けていたと思われます。この後、鉄道工事で働く朝鮮人に関する記事が見られなくなりますので、彼らがどうなったのかよくわかりませんが、長く働き続けたのではないようです。

 ついで朝鮮人労働者の存在がわかるのは、一九〇九年頃の宇治川水力発電工事です。新聞では、同年五月から記事が出てきて、翌年の「併合」前後までかなりたくさんの記事を見ることができます。

 『京都日出新聞』一九〇九年五月一二日付けに載った「韓人の大負傷」と題する記事では、滋賀県滋賀郡滋賀村大字外畑に寄留する裴道合という朝鮮人が、宇治川水電工事で働いていたところ、トロッコの事故で「一時危篤」になるほどの重傷を負った、となっています。裴は二三歳で、「大韓国釜山港富坪洞」からやってきたとされています。富坪洞(富平町)は日本の専管居留地でしたから、そこに居住する日本人の募集に応じて働きに来ることになったのではないかと思われます。

 宇治水電の滋賀県側の工事では、田中竹松という親分が朝鮮人を雇っていましたが、田中やその子分の日本人が暴行を加えるので多くの朝鮮人が逃亡していました。上の事故が起こったのと同じ五月末には、六人ほどの朝鮮人が逃亡しましたが、田中らはかれらを捕まえて、「荒縄にてヒシヒシと縛り上げて連れ帰り」、さらに三人に対しては「子分のものども踏んだり蹴ったりの憂目を見せ」たため、さすがに警察の取調べを受けています(『京都日出新聞』一九〇九年七月七日)。「之れと類似の韓人虐待は同地方に於て珍しからぬ出来事」とも書かれていますから、ほかにも同様の事件があったようです。

 これらの記事では、宇治川水電工事に雇われた朝鮮人労働者が滋賀県側にいたことになっていますが、京都府の側の工事で朝鮮人労働者が働いていたことがわかります。

 『大阪毎日新聞』一九〇九年六月一三日付には「韓国人夫の輸入」という記事があります。

 「宇治川水電会社にては予て〔かねて〕韓国人夫五十余名を使役せるがその結果良好なるより今回更に韓国慶尚道講道〔ママ〕朴益順外五十八名を募集し昨十日午後漢口丸にて〔大阪の〕川口に着し同夜京橋より淀川通〔かよい〕の汽船にて宇治川水電所に向けて出発せり人夫の賃銀は一日最高五十銭なりと。」

 彼らは京都府宇治郡宇治町での工事に従事することになったようです。この記事より前の同年六月三日の『京都日出新聞』には、宇治町の水力電気株式会社では一〇〇名余りの「韓国苦力」を使っていたのが、七名が逃亡したため会社側は「取押へ方」を警察に依頼した、という記事があります。さらに、九月三〇日の同紙には、水電工事に従事していた趙書という二九歳の朝鮮人(慶尚北道慶竹府校里村となっていますが、慶州郡の間違いでしょう)が脚気にかかって仕事ができなくなったため、帰国途中京都の東寺前で倒れていたのを警察が保護した、という記事があります。

 この工事に従事する朝鮮人労働者と日本人労働者の間は、かなり険悪な関係であったようです。一九〇九年九月七日の『京都日出新聞』に「日韓人の争闘」、同月一〇日の『大阪朝日新聞』に「日韓工夫の争闘」、という記事が見えます。それらによれば、作業中に一人の朝鮮人労働者と日本人の間で争論・殴打の喧嘩があり、警官が朝鮮人を連行しようとしたところ、同僚が釈放を嘆願したが、雇主の井上豊吉がこれを制止したため、四、五十名の朝鮮人が井上を取り囲んだ。これを見た日本人労働者が集団で押しかけたため、双方の間で投石、つるはしをもっての衝突が起こり、日本人四人、朝鮮人一人が負傷したとされます。一時山中へ逃げ込んだ朝鮮人労働者は、その後仕事に戻りましたが、醍醐警察署は三名の朝鮮人を取調べていると記されています。

 この記事で注目される記述は、「韓国工夫飯場什長金基善(三十四年)」が日本人に味方したと疑われて朝鮮人から暴行されたと書かれていること、そして検挙された三人のうち「争闘の首謀者咸義俊は通訳にて故意に誤りたる通訳を為し騒擾を大ならしめ」たとされていることです。「什長」というのは、朝鮮で「人足頭」を指します。一〇人、二〇人程度の人夫を率いる「親方」と言ったらよいでしょうか。そのような朝鮮の労働者の組織が日本にもそのまま持ち込まれていたことがわかります。さらに什長以外に日本語の通訳を務める朝鮮人がいたこともわかります。この事件の場合は、什長が日本人寄りの立場に立ち、通訳が朝鮮人労働者を代弁する立場だったように思われます。

 ともあれ、宇治川水電工事の京都府側では、一〇〇名以上の朝鮮人労働者が従事していたのですが、日本人との関係は良くなかったようです。それでも、この衝突事件の後も多くの朝鮮人が働きつづけました。

 ところが、一九一〇年八月末、韓国併合が行なわれた直後に、再び事件が起こります。九月から一〇月にかけていくつも記事が出ています。『京都日出新聞』九月二日、四日、一〇月一三日、『大阪朝日新聞』九月二日、五日、『大阪毎日新聞』九月二日、五日などです。これらの記事によれば、事件の経過は次のようなものでした。

 宇治川水電工事の第七隧道〔トンネル〕の工事は、東京の鹿島組が請け負ったのですが、下請けとして西本組があり、そのまた下に井上〔工事監督とも記されていますが、一九〇九年九月の事件で名前の出た井上豊吉ではないかと思われます〕という請負業者がいました。『京都日出新聞』九月四日付けでは、もとは井上豊吉が請け負い、「朝鮮人金基善の率いる朝鮮人五四名を鹿児島地方から雇い入れた」とされています。九州でおそらく鉄道工事に従事していた朝鮮人が什長の金基善に率いられて宇治川水電工事に働きにきていたのでしょう。井上は八月二九日、まさに併合発表の当日に工事を中止して手を引いたといいます。西本組がそれを引き継いで工事を続けることになったようですが、そこに働いていた日本人三四名と朝鮮人六〇名余りのうち、朝鮮人は「使用に耐えず」つまり「懶惰」であることを理由に解雇してしまいました。このため朝鮮人は帰国旅費を要求して工事現場で示威行動を始めました。一方、西本組は疎水工事を下請けさせていた吉井という業者に日本人人夫数十名を送るように指示を出したため、時が時だけに、衝突事件が起きるおそれがあるとして、警察は一七名の巡査を派遣して警戒に当たらせ、朝鮮人労働者を飯場から出ないようにしました。結局、いったんは会社が旅費を出すことで解決し、九月三日会社側が付き添い人を付けて朝鮮人労働者四九名が大阪まで行きました。六人は帰国したのですが、残りは日本に滞在して職を探したいと言い出したようです。

 その後の経過は記事が見当たらずわかりませんが、労働者はまた工事現場に戻ったようです。ところが、九月末か一〇月始めには再び日本人と朝鮮人との間で衝突事件が起こり、八名が負傷しました(うち朝鮮人は金基善ほか一名)。この事件で日本人一三名と朝鮮人三四名が検挙されて、京都地方裁判所検事局で取り調べを受けましたが、「相互語調の通ぜざる結果意志の誤解より招きたる」事件というように解釈され、起訴猶予ということになりました(『京都日出新聞』一九一〇年一〇月一三日)。この事件に関連するものかどうかわかりませんが、一二月二七日には水電工夫の羅書房〔書房はもちろん本名ではないでしょう〕が爆発物取締罰則違反で懲役二年を言い渡されています(『京都日出新聞』一九一〇年一二月二八日)。

 さらに一年後の一九一一年一二月にも、宇治川水電工事に従事する朝鮮人労働者と日本人労働者との間で、賭博が原因の争いがありました。「宇治川水電の工事には日本人の工夫は素より朝鮮人も多数居り常に些細なことより日鮮〔ママ〕の喧嘩口論となり日本の工夫が握拳を固めて横面を殴り飛ばせば朝鮮人は得意の蹴足にて横腹を蹴倒すといふ乱暴さ加減にて何分多数のあらくれ男とて会社の監督並に宇治警察署にても此の取締には腐心の有様なるが」(『京都日出新聞』一九一一年一二月一五日)といわれていますから、喧嘩は始終あったようです。

 これらの記事から、いくつかのことがわかります。まず第一は、併合をはさむ一九〇九年から一一年にかけてかなりの数の、たぶん百名から二百名くらいの朝鮮人労働者が宇治川水電工事に従事していたことです。第二に、それらの朝鮮人労働者は朝鮮半島南部で日本人あるいは朝鮮人親方の勧誘・募集でやってきたこと、中には最初九州で働いていた労働者が移ってきた場合もあること、第三に、当初は成績良好とされていたのが、次第に「怠惰」などのレッテルを貼られるようになり、日本人から偏見の目で見られるようになったこと、第四に、日本人労働者とは険悪な関係だったこと、第五には、併合前後には警察は大事に至らないように厳しい監視をし、ある場合には会社との間の斡旋もしたと見られること、などです。

 併合前の朝鮮人労働者は、「出稼ぎ」の色彩が強く、土木工事に従事する場合がほとんどでした。現在の「外国人労働者」に近いわけですが、彼らが日本に渡ってきたのは、朝鮮半島に進出していた日本人の仲介・募集によるものだったことが京都の事例からも推測できます。やはり日本の朝鮮侵略と深い関係があったといえるわけです。
 

3  「併合」後の朝鮮人労働者

 では、「併合」後、京都にやってくる朝鮮人労働者はどのように変わったでしょうか。最初は、やはり土木工事に働く人がやはり多かったようです。

 一九一二年七月、明治天皇が死去しましたが、その陵墓が伏見桃山に設けられることが決り、すぐに工事が始まります。『京都日出新聞』同年八月二七日付の記事によれば、御陵工事に朝鮮人人夫が従事しているため、伏見警察署では「不敬などあらば由々敷一大事なり」として厳重警戒に当たっている、とされています。大阪在住の「朝鮮人人夫誘拐者」戸浦友吉は、以前朝鮮に渡って人夫として働いていたが、併合の時大阪に帰る折、朝鮮人数名を同行してきて、飴売りをさせていた、そしてそれらの朝鮮人を通じてさらに数十名を呼び寄せさせて「巧みに欺きて」宇治川水電工事などに送りこんでいたところ、その一部が桃山御陵の工事に入り込んできているのだ、というのが記事の内容です。また、伏見署長は、御陵鉄道工事の請負人増田伊三郎を呼び出して朝鮮人夫十数名の解雇を命じたとされています。警察の警戒心は相当強かったようです。

 「併合」を成し遂げた明治天皇の陵墓の工事に朝鮮人が従事していたというのは、植民地本国と被植民地との関係を象徴的に示すことといえるでしょう。

 同じ時期の京都での土木工事としては、一八九〇年に完工した第一疎水に続いて第二疎水の工事が行なわれていました。流水量を増やして、発電・上下水道に利用することが目的でした。この工事にも朝鮮人が従事しています。『京都日出新聞』一九一一年九月一一日付の記事では、請負師が朝鮮から人足を募集してきたといい、仕事は日本人並にやるが、金があるうちは焼酎を飲んだり、気に入らないことがあれば「同盟罷工」〔ストライキ〕をしたりするので、扱いにくい、としています。

 このような土木工事で働く労働者だけでなく、他の仕事をする朝鮮人が現れたのが併合後の特徴です。

 一九一一年八月二八日の『京都日出新聞』には、京都市内で飴売りをする朝鮮人六人が下京区の旅館で賭博をしていたところ、警察に検挙されたことを報じる記事が出ています。堀内稔さんの研究(「在日・朝鮮飴売り考」『論集・朝鮮近現代史』明石書店、一九九六年)によれば、併合前の神戸・大阪などでは朝鮮人が飴売りをしていましたが、彼らは宇治川水電工事などの土木工事で働いていたのが、病気その他の理由で飴売りの商売をするようになったのではないか、とされています。堀内さんの論文には、宇治川水電工事に従事していた鄭周彦という朝鮮人が一九一二年頃には神戸で飴売りの親方となり、後には土木労働者の親方になったとされています。実は、上の京都の記事に報じられている六人のうちの一人が鄭周彦で、「良く日本語を解し警部補の取調べに対し仲間の者の通訳をなして一々之れに答へゐたる」とされています。土木労働者が飴売りという商売に「転身」したわけですが、その中心には日本語のできる「通訳」が存在していたこともわかります。

 変わったところでは、京都市内の電車車掌になった朝鮮人がいるという記事が一九一三年に見られます(『京都日出新聞』一二月一三日)。京都駅から堀川通りを通って北野神社まで行く電車を運行する京都電気鉄道株式会社の車掌に、慶尚南道咸陽郡出身の姜在宇という一八歳の朝鮮人が雇われているとされています。姜は、朝鮮で「内地語学校」を卒業した後、「語学の実地研究の為」、「実兄が鐘紡の下京工場に勤めて居るのを頼って」京都にやって来て、多くの人に接することができる車掌をすることになったといいます。「頗る成績は良い方で朋輩〔同僚〕の気受けも良く」、日給四十二銭で働いているとのことです。彼は最初の朝鮮人車掌だったようですが、このような仕事につく朝鮮人があらわれるということは、やはり「併合」の後でなければ考えられないでしょう。

 さらに、この記事で注意すべき点は、姜の兄がそれ以前に京都の鐘紡工場で働いていた、ということです。京都の地域では朝鮮人が繊維産業に従事する傾向がいつからあらわれるのか、まだよくわかりませんが、一九一三年の時点ですでに京都の繊維工場に朝鮮人労働者がいたことが確認できます。鐘紡は近代的な設備を持つ工場といえますが、次第に京都の伝統産業である織物や染色の工場に朝鮮人労働者が増えていったと見られます。
 

4 京都の伝統産業と朝鮮人労働者

 時代は少し下りますが、一九一九年一〇月一二日の『京都日出新聞』には「呀や〔あわや〕日鮮〔ママ〕職工が争闘」という記事があります。二条油小路の友禅工場で働く二人の朝鮮人労働者と日本人労働者との間で喧嘩が起こりました。「言語不通の為め感情の衝突を来した」とされています。喧嘩自体は大したものではなかったようですが、注目すべき点は、朝鮮人労働者が「附近に被雇れゐる〔雇われている〕鮮人〔ママ〕仲間」に加勢を求め、一四名が問題の工場に押しかけた、とされていることです。油小路通りは堀川に近いところですから、堀川で友禅流しをする工場が多かったのではないでしょうか。加勢に来た朝鮮人も友禅工場で働いていたと考えることができます。

 一九二〇年の国勢調査(統計局『大正九年国勢調査報告 府県の部 第二巻京都府』一九二三年)によると、京都府には一〇六八人(うち男八二三人、女二四五人)の朝鮮人が住んでいました。「本業者」つまり世帯主とされる者は九七一人(男七七五人、女一九六人)で、その家族などは九七人にすぎません。この時期にはまだ、単身で出稼ぎに来ていた人がほとんどだったことがわかります。世帯主の職業は、工業七七四人(男五八八人、女一八六人)、商業五三人、交通業三三人、農業二二人、公務・自由業一一人、無職業五五人(男四七人、女八人)などとなっています。工業が八割を占めています。さらに工業のうちわけでは、土木建築業に従事する者が一六五人(すべて男)であるのに対して、繊維工業従事者が四六〇人(男二七七人、女一八三人)となっており、土木労働者より繊維産業従事者の方がずっと多くなっています。

 京都市内在住者だけをとって見ると、この傾向はさらに強くなります。市内在住者は七一三人(男五一二人、女二〇一人)、世帯主は六四五人(男四七七人、女一六八人)ですが、世帯主の職業は土木建築業が五四人(すべて男)、繊維工業が三七五人(男二一五人、女一六〇人)となっています。つまり、繊維工業従事者は、男女合計で五八%、男だけでは四五%、女ではなんと九五%を占めていたことになります。

 一九二〇年代になりますと、京都の伝統産業(友禅染、西陣織関係)で働く朝鮮人労働者に関わる新聞記事が多くなります。すべて紹介する余裕はありませんが、例えば、『京都日出新聞』一九二〇年一〇月二三日付けには、「井林撚糸工場の鮮人〔ママ〕職工ボイコット」という記事があります。上京区小川通今出川上るにある市会議員井林清兵衛経営の撚糸工場で働いていた朝鮮人八人が寄宿舎の衛生状態が悪いこと、賃金が他の工場より安いことなどからボイコット(ストライキというべきでしょう)をし、結局同月分の賃金を受け取って工場を辞めた、と報じられています。この工場には、彼らのほかにも十数名の朝鮮人が働いていたとされますから、二〇名以上が雇われていたことになります。ストライキの原因は、朝鮮人の側がいうようなものではなく、西陣方面の景気が良いため工場間で職工の取り合いがあり、賃金の高い工場に彼らが移ろうとしたことにある、と記事には書かれています。「朝鮮人職工間には所謂親分なる者があって其の多くは数名宛の女工を従へて工場より工場へ転々し女工等の工賃の上前を刎〔は〕ねる悪風あり」などとも書いていますから、記事を書いた記者は朝鮮人に対する偏見を強く持っていたことがわかります。

 ともあれ、国勢調査の数字や新聞記事からわかるように、併合から一〇年の時点で京都に住んでいた朝鮮人の主たる仕事は京都の伝統産業でした。国勢調査によれば、一〇人以上の朝鮮人が従事している職業としては、土木建築業、繊維工業のほかに、農業、工業のうち窯業、金属工業、機械器具製造業、飲食料品・嗜好品製造業、商業では物品販売業、飲食店、交通業では通信業、運輸業があります。しかし、どれも繊維工業・土木建築業には比べられない数字です。

 少し時期が下ると、繊維工業従事者より土木建築業従事者が多くなり、また職業の種類もある程度多様化しますが、繊維産業で多くの朝鮮人が働いているという状況は変わりません。つまり、京都の伝統産業は(あるいはその一部は)朝鮮人によって支えられていた、といって過言でないわけです。

 三〇年代の京都市による調査報告書(京都市社会課「市内在住朝鮮出身者に関する調査」一九三七年)も、「本市特殊産業部門」である繊維工業のうち染色業とそれに付随する蒸業・水洗業に朝鮮人が多く働いていることを指摘した上で、「斯かる現象は本市における染織工業の規模が何れも極めて小さく、従って最も低廉なる労働力を基礎としてのみ他の大工業と対抗し得而も朝鮮出身同胞労働は斯かる業者の希望を実現するものとして歓迎され出したものといふべきである」と記しています。小規模の工場で肉体を酷使する重労働に低賃金で従事する労働者として、伝統産業を支えていたのです。
 

5  生活状況

  京都在住朝鮮人の人口の推移を統計数字で見ておきましょう。統計というのは、必ずしも正確なものではありません。特に在日朝鮮人の人口統計は、調査機関の違いなどがあって、時期による変化を正確に反映していない点に注意すべきですが、おおまかな傾向はわかりますので、簡単に見ておくことにします。

 一九一三年に京都府で八七人だった朝鮮人人口は、上で見たように一九二〇年には千人を超えました。二〇年代から三〇年代にはさらに増加のスピードが速くなります。一九二三年に四千人、二七年に一万一千人、三三年に三万二千人、三七年に五万人、四一年には八万人にまで増えました。これが戦前の京都府においては朝鮮人人口のピークです。

 朝鮮人在住者が増加するにともなって、そのあり方も変わっていきます。最初は、男にせよ女にせよ、単身の出稼ぎ労働者だったのが、次第に家族を呼び寄せたり、家族を連れてやって来たりする人が増えます。だいたい一九三〇年前後にこのような変化があったと見られます。というのは、その前後で男女の比率が大きく変わっているからです。一九二八年には京都在住朝鮮人の男女比率は五対一だったのですが、三四年にはほぼ二対一にまで男女の差が縮まっています。この数字からも、家族の形態で生活するようになった朝鮮人が増えたことが推測できます。

 人口の増加は、朝鮮人集住地区の形成をもたらします。三〇年代前半までには京都市内にいくつかの集住地区が形成されました。その要因はいくつか考えられますが、最も基本的な要因は住宅を借りるのが困難だったことです。日本人の家主は朝鮮人に家を貸すのを嫌がりましたし、借家があっても家賃は高かったので、河川敷や町外れに掘建て小屋を建てて住まざるを得なかったわけです。土木工事の現場や倒産した紡績工場の跡に住みついたというところもあります。

 このような集住地区は、一方で朝鮮人同士の助け合いの場になったり、民族的な生活・ことば・文化を守る役割も果たしていたと思います。

 こうして、次第に「定住」する朝鮮人が増えていきます。一九三五年の京都市の調査では、世帯主に「永住」の意思があるかどうかを質問する項目が立てられていますが、八八%が永住の意思ありと答えています。日本が朝鮮を植民地として支配しており、朝鮮人が故郷では生活の糧を得ることが困難な状況を前提としての質問と回答ですから、この数字をそのまま鵜呑みにすることはできないと思いますが、それでもかなりの朝鮮人が京都あるいは日本で長期間生活する気持ちを持つようになっていたといえるのではないかと思います。

 家族と一緒に生活するようになると、新たな問題が生じます。子供の教育です。日本では義務教育になっていましたが、日本に住んでいる朝鮮人の教育のことまで当局が配慮していたとはいえません。三〇年代後半に「皇民化」が強調されるようになるまでは、朝鮮人の子供は学校から無視されていたといってもよいと思います。

 日本の学校に通う一部の子供を除けば、ほとんどは学校に行くことがありませんでした。特に女性はそうです。しかし、集住地区などでは書堂、夜学などが朝鮮人自身によって運営されていたところがあります。そこでは朝鮮語を学ぶこともできました。三〇年代の京都市内には朝鮮人経営の幼稚園・保育所もありました。戦前の在日朝鮮人運動というと、民族運動や労働運動などが注目されることが多いのですが、教育の問題に取り組んだ活動、あるいは生活を守るための消費組合の運動なども重視されねばならないと私は考えています。朝鮮語を教えるような書堂・夜学は三〇年代半ばには弾圧を受けて、維持できなくなりましたが、現在の民族教育の問題を考える時にも、戦前の在日朝鮮人の教育の問題や活動を振り返っておくことは重要だと思います。
 

6 おわりに

 他にもお話しなければならない問題が残っていますが、京都における朝鮮人社会の形成に焦点を合わせて、お話した次第です。最初にも申し上げましたように、戦前の京都に住む朝鮮人のしごとや生活の状態を見ますと、一つには地域社会の構成員として重要な役割を担っていたこと、二つには生活の中で民族的な文化・ことばを守り育てる必要があったこと、この二点を指摘することができると思います。このように歴史を見ることが、現在の問題を考える時にも少し役に立つのではないかと思っています。

 文字で書かれた資料に頼っての研究ですから、不充分な点が多いと思います。聞き取りなどもしなければならないと考えていますので、いろいろお教えいただければ幸いです。


『民族文化教育研究』発行所
京都民族文化教育研究所(所長・姜永祐)
〒611‐0033 宇治市大久保町北ノ山1‐4
Tel/Fax  0774-43-1590



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