野上元「<書くこと>と鎮魂―大岡昇平の「戦争文学」を題材に」
 「私はこれからレイテ島上の戦闘について、私が事実と判断したものを、出来るだけ詳しく書くつもりである。七五ミリ八砲の砲声と三八銃の響きを再現したいと思っている。それが戦って死んだ者の霊を慰める唯一のものだと思っている。それが私に出来る唯一つのことだからである」と大岡昇平は『レイテ戦記』のなかで書いている。だが一体、「事実」を「書くこと」が、どのようにして「慰霊」と結びつくというのだろうか?
 この問題は、作家大岡昇平の個人的な資質や、狭い意味での文学史的な整理の中に落としてしまってはとらえきれないものをはらんでいるように思われる。本報告では、とりあえずこの大岡のテクストを参照しながら、そこ(テクスト=戦場)における「事実」なるものの構成、大岡らの「戦争文学」という戦後文学の一制度、「記憶」や「文体(=方法的意識)」の問題など、さまざまな社会性の水準を縦断しつつ、戦死者との「慰霊」と戦場についての「事実を書くこと」とが結びつく、その「仕掛け」を明らかにしてゆくことにしたい。
大岡に限らず、戦場から帰ってきた兵士たち、あるいは空襲を生き延びた人々は、戦後、それぞれ様々な形で戦争体験を「書くこと」に注力してきた。おのおのの「戦争体験」をテクストに残すこと――戦後社会では、それこそ執拗に「戦争体験記」が書き続けられてきたのだが、これほどまでに民衆主義的に「書く」という行為が興隆したということ自体が、じつは歴史的な現象なのである。大岡のテクストは、もちろん「文学」という制度の内部で起こったできごとなのであるが、もちろん、こうした社会史的な文脈のなかで理解されるべきできごとでもあるのである。