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応用人類学の系譜  田中雅一(京都大学人文科学研究所)

「人類学の学習はわれわれのような帝国には必要不可欠だと言ってよい1。

「率直に言って、多くの人類学的あるいは社会学的な研究は「役立たず 」だ2。

1 実用という視点

 知識と社会との関係をめぐる問いかけの一つが、純粋理論と応用をめぐる問題である。ここで取り上げるのは(社会・文化)人類学あるいは民族学の植民地支配にたいしての実用性をめぐる諸言説の歴史である。

 たしかに、人類学は欧米の植民地支配と密接に関係しつつ発展してきた3。しかし、人類学と社会(宗主国と植民地双方)のダイナミズムを無視すると、人類学が植民地支配が生み出した学問だとか、いわゆるオリエンタリズム(サイード)の一翼を担う政治的支配を正当化する、統治のための知識であったという結論をなんの迷いもなく引き出すことになる4。このような結論が一面的だというためには、オリエンタリズムの議論が依拠している東洋文献学と異なり、人類学はより対象(フィールド)との私的な関係に影響を受けてきたことを指摘すれば十分であろう。

 人類学的知はきわめて具体的な対面関係を通じて生みだされる。人類学者が対象とする「他者」は、欧米人にとってはたしかにもっとも遠くに位置する未開かつ野蛮な存在であったかもしれないが、フィールドでの長期の調査方法を確立した20世紀の人類学者にとっては、かれら(すくなくともその一部)はもっとも身近な存在であった。そうした親密さ(familiarity)ゆえに人類学者自身が批判されるということさえ起こった。本論で取り上げる北ローデシア(現ザンビア)のローズ・リヴィングストン研究所(Rhodes-Livingstone Institute)のように、旧植民地に設置された研究所においては、それを取り囲む現地人アシスタント、インフォーマント、白人入植者、役人などとの適切な距離の取り方がつねに問われていた。より一般的にはフィールドワークという体験が一方的かつ一面的な知識のあり方を攪乱する可能性を含んでいるともいえるのである5。

  最近阪上は「生きられた知識」「統治の知」「理論的・体系的な知識」の三種の知識について整理しているが(阪上 一九九七、一六−一七)、これに従えば、人類学は、植民地(フィールド)に住む人たちの「生きられた知識」をフィールドワーク(参与観察)を通じて対象とする学問であるが、フィールドの外ではそれを「統治の知」(植民地の科学)として有用とみなしたり、そう期待されたりした。しかし、実用的な次元にとどまらずに、一方で本国の大学を拠点とする「理論的・体系的な知識」の発展に寄与した。現地で住み込みで調査をするというフィールドワークの方法が撹乱的要素を含みつつも、統治に寄与したり、また理論化・専門化に向かって結果として批判性を失うということも生じた。本論は、人類学を構成するさまざまな言説の中で、とくに「実用・応用」という概念に注目することで、以上の三つの知の水準のダイナミズムに迫るものである。

 本章では、一九世紀半ばから二〇世紀半ばにかけての人類学と植民地政策との関係を時代にそって検討する。人類学の実用性をめぐる議論を見ると、一九二〇年代に大きな変化が生まれた。それまでは、人類学の実用性を強調していた人々は、官僚であれ、人類学者であれ、人類学の植民地となった伝統社会についての知識が植民地行政官や商人に役に立つと信じ、これを主張してきた。これにたいし、二〇年代半ば以後では、長期のフィールドワークを行うという方法論的革新が生じ、実用性を強調する人類学においては、再構築された伝統社会についての知識ではなく、社会変化の過程にある現実社会そのものの記述および分析こそ実用的である、という主張へと変化してきた。この変化が端的に認められるのはマリノフスキーによる1922年と1929年に発表された二つの論文である。

 しかし、現実はどうだったのか。実用性の主張が受け入れられたのかどうか、理論的知識との関係はどうだったのか。本章の後半ではローズ・リヴィングストン研究所を取り上げて、具体的な検討を加えていくことにする。

2 人類学の役割

 英国では1807年に奴隷交易が廃止され、解放令が33年に発効する6。これを受けて廃止運動に関わった人々が1838年に先住民保護協会を設立するが、路線の違いから1843年にロンドン民族学協会(The Ethnological Society of London)が生まれる。この機関誌にはつぎのような文章が掲載された。  

「民族学」は今や一般にわれわれの注意を強く惹きつける主張を持つものとして認められている。それはたんに自然の生みだした世界をのぞき込むのを好む人々の好奇心を満たすというだけでなく実用的な(practical)意義を持つものである。なぜなら、とくにこの国には、たくさんの植民地と広範囲にわたる交易によって、相互に異なり、また私たちとも異なる肉体的、道徳的特徴を持つ多種多様な人々との接触が生まれたからである(Brodie 1856: 294-295)。

 その後も人類学(民族学)が植民地経営に有用であることを強調する主張が続くが7、1871年の人類学協会(1907年に王立人類学協会と改称)設立後8、人類学の実用性についての議論は影を潜める。しかし、この間大学での人類学のポストは着実に増えていった。1883年に『未開文化』の著者エドワード・タイラーがオックスフォード大学に、1900年にはA・C・ハッドンがケンブリッジ大学に職を得る。1906年までにオックスブリッジとロンドン大学に社会人類学・民族学の拠点が整備される。人類学のディプロマ・コースが、1905年にオックスフォードに、そして1908年にケンブリッジに創設されて、行政官を受け入れた。

 こうした中、人類学の植民地行政に対する実用性を唱え、応用人類学の学校(カレッジ)設立を目指したのがSir Richard Carnac Temple (1850-1931)であった9。かれは準男爵の長男で、ハーローからトリニティ(ケンブリッジ)というエリートコースを進み、1871年から1891年まで軍人としてインド、ビルマ、アフガニスタンなどで活躍する。1894年にアンダマン諸島のChief Commissionerとなる。一方で、かれはPunjab Notes and Queries(1883-87) やThe Indian Antiquary(1884-)の編集、公刊を始める。著書にAndamanese Language (1877), Legends of the Punjab (1883-90), Government of India (1911), Anthropology as a Practical Science (1914)がある。最後の書物に収められている3論文はもともとは講演である。それらは、1904年のケンブリッジで行ったThe Practical Value of Anthropologyという講演10、1913年のバーミンガム大学でのThe Administrative Value of Anthropology、オックスフォード大学でのThe Value of a Training in Anthropology for the Administratorの講演である11。また、1908年には首相に人類学の有用性を認識させ、帝国人類学部局Imperial Bureau of Anthrpologyの設置を提案した。

 以下にテンプル卿の構想を紹介しておきたい。かれの基本的な主張は、大学教育で人類学的な習慣the anthropological habitをつけることこそ、植民地での他者理解を深めるはずだ、ということである。かれらについての知識を得ることで共感を深め、さらに尊敬も獲得できる、というものであった。

行政官にとって管轄下にある人々をよく知っているということは達成であって、かれの成功にとって本質的であるだけでなく、その知識が洞察をもって使用されるなら、かれの任地国にとっても有益このうえない。そしてこの洞察は「人類学的慣習」anthropological habitによってもっともうまく獲得されるのだ(Temple 1905: 4)。

行政で成功するには、機転を使わなければならない。機転とは洞察と眼識で、直感的な人類学の知識から生まれる性質のものだ。・・・若いときに(外国に送られて現地人を管理する)人々は人類学的慣習を習得してたはずなので、・・・自分の周りにいる人々についてなにを知ることが必要なのかを、しかも最短時間で学ぶだろう(Temple 1913: 296)。

そして、人類学の拠点を確立することを提案している。その具体的な内容は、同年Indian Civil Serviceの見習いたちにたいしてオックスフォードで行われた講演で明らかにされている。かれによれば、植民地の行政官に必要なのは彼の地の言語、行政の仕組み、法律だけでなく、その文化についての知識である。そして、それを教えるのが応用人類学カレッジ(School of Applied Anthoropology)である。 

 テンプル卿の主張は第一次世界大戦で中断されたが、戦争終結後再度「応用人類学カレッジ」の設置を1921年の講演で要求している(Temple 1921, Anthropology British Association 1921)。

 テンプル卿のいう実用性とはあくまで任地の現地人たちについての知識であり、人類学そのものをどうすべきかといった、より踏み込んだ議論はなされていない。またかれのいう人類学的慣習の習得とは、観察力を高めたり知識を獲得する方法である。テンプルは、次節に見る国際アフリカ言語文化研究所の理念やマリノフスキーとは異なり、所与の知識としての人類学の有効性を強調し、またその主張に基づいて制度化を図ったが、人類学そのものを変革しようという意図も資格もなかった。かれ自身、人類学が有する趣味的性格を完全に取り去っていなかったことは、コインの収集など趣味としての実用性に繰り返し触れていることからも明らかである。そもそも、人類学の実用性とはこうした趣味性からの決別を意味するのではなかったのだろうか。

 1922年は、後の英国人類学に多大な影響を与えるマリノフスキーの『西太平洋の遠洋航海者』とラドクリフ=ブラウンの『アンダマン島民』が出版され、この年をもって近代人類学の幕開けとされる。近代人類学とは長期のフィールドワーク(住み込み)に基づく、地域社会の共時的な記述と社会学的分析をめざす学問としての人類学を意味する。この年、すでにロンドン・スクール・オブ・エコノミックスの民族学非常勤講師になっていたマリノフスキーは『エコノミカ』誌に「民族学と社会研究」という論文を発表している。

 そこでマリノフスキーは、民族学(人類学)にはふたつの実用的価値があると指摘している。ひとつは、植民地政策に直接関わるもので、もうひとつは人類全体の発展に洞察を与えるものーーかれのいう「ニュー・ヒューマニズム」12「未来についての社会学」ーーである。後の議論との関係で指摘しておきたいのは、このふたつの価値のうち、厳密には前者のみが本論でいう実用性を意味し、後者はむしろ理論的な性格が強い13。前者に関しては「野蛮人や有色民族の研究は植民地行政ならびに白人と有色人との関係の統制にとって実用的価値がある」(Malinowski 1922: 208)とし、すこしでも当地の民族誌的知識に通じていれば回避できる問題ーーかれがとくに例として挙げているのは性のモラルと戦争であるーーが多々あるという。さらに、マリノフスキーは、人類学に理解を示す偉大な行政官の一人としてテンプル卿に言及しているが、かれの主張にまで踏み込んではいない。

いたるところに文化のあらゆる要素、すなわち、すべての習慣と信念が価値を表し、社会的機能を果たし、社会的でかつ生物学的意義を有するという事実をまったく理解できないというおろかさが蔓延している。というのも伝統とは、すべてのより糸がきっちりと編み込まれているため、どれか一つがほどけてもすべてだめになるような布のようなものだからだ。生物学的に述べると、伝統というのは共同体が環境にたいしてとる集合的な順応形態である。伝統を壊してみなさい。そうすれば集合的な有機体である共同体から保護してくれる外皮を取り去り、ゆっくりだが不可避となる消滅の過程へと追いやることになるのだ(Malinowski 1922: 214)。

この文章に機能主義が依って立つところの社会有機体説を認めることが可能である。西欧人の道徳的視点からある種の慣習を廃止すると、とりかえしのつかない結果が生じると警告している。しかし、ここで問われている社会は西欧と接触する以前の共同体である、ということにも注意しておきたい。

 さて、話は前後するが、1920年代までのアフリカではどの程度人類学者が植民地経営に関わっていたのだろうか14。1908年に南ナイジェリアで行政人類学者government anthropologistが任命されたが一時的な試みに終わっている。1920年にアシャンティの研究で有名なラトレィが黄金海岸(ガーナ)で新しい役職である行政人類学者に任命され、また1921年にはナイジェリアではセンサスのために人類学者が任命された。東アフリカでは1909年から断続的にC・G・セリグマンがアングロ・エジプト・スーダン政府のために人類学的調査を行い、これをE・E・エヴァンズ=プリチャードが引き継いだ。南アフリカではアイザック・シャペラがベチュアナランド政府と密接な関係を保持していた。

 このように、人類学は必ずしも植民地経営に深く関わっていたとはいえないし、そうであってもセリグマンやエヴァンス=プリチャードが告白しているように、かれらにアドバイスが求められることはなかった(Evans=Pritchard 1946: 97)。しかし、こうした状況は徐々に変わっていく。

3 フィールドとしての植民地

 1926年に国際アフリカ言語文化研究所The International Institute of African Languages and Culturesがロンドンに設置された15。1928年には機関誌『アフリカ』を公刊する。メンバーは人類学者、言語学者、伝道師、植民地行政官などで、第一期の決議機関にはナイジェリアに勤務し間接統治政策の提唱で有名な元ナイジェリア総督のルガード卿、フランスのルシアン・レヴィ=ブリュル、そしてセリグマンらが任命されていた。後に、W・シュミットやマリノフスキーもメンバーとなる。一般会員は1927年に149名、1930年には903名に達した。

 研究所の設置目的は、第一にアフリカについての一級の知識を蓄積、配分する情報センターであった。第二にこの研究所はアフリカについての科学的な知識を実用的な事柄(開発)に役立てる、橋渡しをするものとして位置づけられていた。しかし、これは政治や行政に直接関わることを意味しない。本章の議論に関係するのはこの第二の性格である。

研究所のすべての研究は厳密な科学的原理に基づき、科学的方法によって実施されることになろう。それは人類学や言語学の調査を行ったり援助するが、同時にその成果をアフリカ民族の実際の生活に結びつけ、研究者の調査がアフリカの発展のために働いている、行政官や教育者、衛生・福祉関係者、商人たちすべての関心である差し迫った諸問題の解決にいかにすれば利用できるのかを発見しようとしている(Lugard 1928:2)16。

 こうした視点から、各言語の調査と正字法の確立、教科書の見直し、人類学的研究の促進などが図られた。これは以前の植民地政策と一線を画するものであった17。ロックフェラー財団の支援を受けてマリノフスキーの推薦する学生たちがアフリカで調査をすることになった18。奨学生にはナデル、フォーテス、モニカ・ウィルソン(当時モニカ・ハンター) Monica Wilson、シャペラ、フォード 、ヒルダ・クーパーら第二次世界大戦後のアフリカ研究を主導する研究者たちが選ばれている19。研究所は調査費用だけでなく出版助成やシンポジウムなども支援した。

 マリノフスキーが1929年に『アフリカ』誌で発表する「実用人類学」の視点は、上述の設置目的をほぼ継承している。そこでかれは「新しい人類学の部門」として社会変化や文化接触を研究対象とする人類学を提唱している。それはまた間接統治という植民地政策により適合的な人類学の提唱でもあった。

 新しい人類学の部門をおそかれはやかれ開始しなければならない。それは変貌する現地民たち(the changing Native)についての人類学だ。・・・(それは)実際文化接触、思想と慣習の移転についての理論的な問題、つまり伝播問題全体にたいしてきわめて重要な光を投げかけるはずだ。この人類学は植民地で実務家にとってもっとも重要であるということは明らかであろう。(Malinowski 1929: 36)。

 ロックフェラーの援助決定に応じるかたちで一九三一年に決定された「調査5カ年計画」では調査目的をつぎのように述べている20。

 

 ヨーロッパ文明の思想と経済力がアフリカ人の生活に内部浸食することから生じる根本的な問題はなにか。それはアフリカ社会の結束力をめぐる問題である。アフリカ社会はきびしい負担を強いられていて、大陸に侵入する列強が完璧にアフリカを崩壊するやもしれぬという危険がある。その結果生じるのは、アフリカ社会の成員個々人にとって大災害に違いないし、同時に共同体の通常の進化を不可能にするはずだ。したがって、ここでは研究所が組織する調査とは、本来のアフリカ社会にある社会結束力の諸要素をよりよく理解すること、それらが新規の影響でどう変化したのか、新しい集団形成や新しい社会的絆の形成についての動向、そしてアフリカ社会と西欧文明との協同形式に向けられなければならない、以上のことを提唱したい(A Five-Year Plan of Research 1932:1)。

 研究所の目的は純粋に客観的かつ科学的な方法で変化の過程を研究することである(A Five-Year Plan of Research 1932:2)。

 設置目的、マリノフスキーの提案、そしてこの調査計画が、繰り返し述べているのは社会変化(文化接触)を対象とする人類学の必要性である。この意味で、後にリチャーズが述べているように、国際アフリカ言語文化研究所は当初から実用人類学(practical anthropology)を標榜していた21。

 国際アフリカ言語文化研究所をめぐる動きに平行して、王立人類学協会でも人類学の応用性についての議論が続けられていた。そして、1937年には応用人類学委員会が結成されている(Applied Anthropology Committee1937)。そこではこの委員会の目的を文化接触や人類学の知識を植民政府への応用について論じるとし、税金や、出稼ぎの村落社会への影響、スラムの発達などを調査のあたらしいテーマとしている。

 1937年に北ローデシアにローズ・リヴィングストン研究所が設置される。

 1938年にはカーネギー財団の支援を受けて、元インド総督W・M・ヘイリー卿Lord Haileyが『アフリカン・サーヴェイ』An African Surveyという、およそ1700頁の大著を著す22。本書でも植民地、とくにアフリカに関して人類学的知識の有効性が強調されている(Hailey 1938: 40-59)23。ヘイリーはまたルガードを引き継いで国際アフリカ研究所の代表となっている。

 1940年には『アフリカン・サーヴェイ』での提案を受けて植民地発展福祉法The Colonial Development and Welfare Actが法制化され、年間£50万が調査費として計上される。1944年に植民地社会調査審議会the Colonial Social Science Research Councilが設置され、上記の予算の分配にあたった。これらの調査費はほとんどがアフリカ研究に使用されている。この初代代表がヘイリー卿であり、レイモンド・ファースがセクレタリーであった。

 以上をまとめると、20世紀に入ってから人類学が植民地経営に有効な知識を与えるという主張が続いていたことが分かる。ただし、その意味するところがまったく同じだったとはいえない。すでに触れたように、テンプルは人類学そのものの変化を意識していたとはいえないが、マリノフスキーは実用人類学を新たな人類学の部門としてとらえて、従来の人類学を批判している24。研究対象も変わらなければならなかったのである。このことは1922年の論文と比較すれば明らかである。そこには従来の人類学批判が前面に出てはいないし、また社会変化という言葉も一度しかでてこない。しかし、1929年当時社会変化(文化接触)を研究しなければならないという主張はかれ独自のものではなかった。国際アフリカ言語文化研究所の設立そのものにこうした視点が認められるからだ。マリノフスキーはこれをより人類学の問題に引きつけて実用人類学を提唱しているのである。そして、社会変化を研究するという視点は、ウィルソン、そしてグラックマンが関与したローズ・リヴィングストン研究所の基本方針となった。

4 ローズ・リヴィングストン研究所

 ローズ・リヴィングストン研究所Rhodes-Livingstone Institute for Social Researchは1937年に北ローデシア、今日のザンビアにヤング知事の主導で設置された25。これはセシル・ローズの南北ローデシア(これはローズの名前に由来する)創設50周年と、デイヴィッド・リヴィングストンがアフリカに向けて出発して100年目が1940年であるということを記念して設置された。最初は旧都ソールズベリーにあったが、1953年に北ローデシアの首都ルサカに移る。もともとは研究所よりも観光客を集めることのできる博物館の設置(一九三四年に設置)が設置提唱者のの主眼であったようだが、博物館は1946年に分離する。1953年の南北ローデシアとニヤサランド連盟の形成にあたってローデシア・ニヤサランド・ユニヴァーシティ・カレッジに吸収され、されに北ローデシア独立後ザンビア大学社会研究所Institute for Social Researchとなる。

 ローズ・リヴィングストン研究所は英領中央アフリカ(南北ローデシアとニヤサランド)での社会調査を指導することを目的とする、政府から独立した研究機関で、政府の支出はおよそ半分であった26。その運営は複数の評議員が責任を持っていた。評議員には政府役人だけではなく一般人も含まれていたため、純粋に理論的なことがらに専念するわけにもいかなかった。

 歴代の所長をここで列挙すると、初代がゴドフリー・ウィルソンである。ウィルソンのもとで働いていたグラックマンがつぎに所長となる27。そしてアメリカ人のエリザベス・コルソンが1948年に、J・C・ミッチェルが1952年に所長になる。その後、タンザニア政府に雇用されていた研究者ヘンリー・フォスブルック(1956−60)、所長代行のC・M・N・ホワイト、A・ヘロン(1963 −67)、大学に設置されたからはJ・ヴァン・ヴェルセンと続く。

 1937年のMan誌に研究所支援をよびかける文章が掲載されている。その一部を引用しよう。

ローズ・リヴィングストン研究所は、アフリカそのものに拠点を形成することで、さまざまな領域でなされている、ヨーロッパ文明の土着のアフリカ社会への影響を検討しようとする科学的営為に貢献として意図されている。ここでは土着民とそうでない人々との間に持続的で満足のいく関係をうちたてられるかという問題が社会研究の主題かもしれない。わたしたちは、都市と田舎両方において新たな集団や社会関係の形成を分析することになろう。これを達成するためには現代中央アフリカ社会に認められる鉱山や商店、官吏や伝道師を、土着の鍛冶屋や疑似兄弟関係、首長や楽師と同じ社会で機能する要素とみなす必要がある(The Rhodes-Livingstone Institute of Central African Studies 1937)。

そして応用人類学の専門家(an expert in applied anthropology)を雇用する計画を披露している。

 この文章は、先に紹介した国際アフリカ言語文化研究所の5カ年計画を想起させる。還元すれば国際アフリカ言語文化研究所や実用的な知識の収集を人類学に託した『アフリカン・サーベイ』と同じ路線でローズ・リヴィングストン研究所も位置づけられていたと言える28。文末には13名の署名があるが、その中にはルガードやヘイリーの名前もある。以下、ウィルソンとグラックマンの基本的立場を見ていくことにしたい。

 ウィルソンは1908年に生まれ、オックスフォード大学で古典と哲学を学び、1932年から34年までロックフェラー奨学生となってマリノフスキーのところで人類学の訓練を受ける。 さらにロックフェラー財団の助成を受けて、1936年から38年にかけてニャキューサ人の間で調査している。同じ助成を受けていたモニカ・ハンターと結婚。1938年に所長となる。戦争が始まると41年に辞任・入隊、44年に戦死する。彼は農村調査だけでなく、困難な状況で鉱山町ブロークン・ヒル(現カブウェ)での調査を行ったことで知られている。

 ウィルソンは、研究所が実用的貢献をすべきであることを説いている(Wilson 1940)。その意味するところは、客観的な知識を収集しそれを提供することであって、みずから政策を左右するような意見を述べることではないという。その知識とは刻一刻と変貌していくアフリカ社会についてである。そのうえで政府の政策を批判的に検討できる。というのも、人類学者は全体を関連づけて社会を見ているので、政策の実行がどのような変化をもたらすのか、どのような状況であればその政策が効果的なのか、ということを示唆できるからだ。かれの主張にマリノフスキーの影響を認めることは可能だ。

 ウィルソンを継承したマックス・グラックマンは、1911年にロシア系ユダヤ人の子どもとしてヨハネスバーグに生まれる。ヨハネスバーグにあったウィットワタースランド大では、ケープタウン大学の初代社会人類学教授ラドクリフ=ブラウンの影響を受けたMrs W. Hoernleに社会人類学を学ぶ。マンチェスター大学退官後、1975年にイスラエルで死去している。

 20世紀初頭の南アフリカは、ラドクリフ=ブラウン(1881-1955)がケープタウン大学で教えていた(1920-26)こともあり、けっして学問的な辺境地帯ではなかった29。1923年アイザック・シャペラがマリノフスキーのところに留学している。1930年にシャペラは南アに戻り、ウィットワタースランド大で教え始めた。そこにはさきのヘーンレが教えていた。彼らのクラスにはグラックマン、 エレン・ヘルマン、アイリーン・クリーグ、 ヒルダ・クーパーがいた。

 1934年グラックマンはローズ奨学生としてオックスフォード大学に留学した。そして、1936年から38年にかけて南アフリカのズールーランドで調査をしている。1939年にローズ・リヴィングストン研究所でAssistant anthropologistとして勤めはじめる。グラックマンは1941年に所長代行となり、1942から1947年まで正式に所長となる。この間数々の調査を行っている30。

 1947年にオックスフォードの上級講師に任命され、アフリカを離れる。そして、1949年マンチェスター大学に創設された人類学科の初代教授に迎えられる。良くも悪くもグラックマンの強力な個性が反映した学科であった。調査地域は主としてローズ・リヴィングストン研究所があった英領中央アフリカであった。マンチェスター大学を拠点とする人類学者たちは、のちにマンチェスター学派(Manchester Schoolとよばれることになる。

 グラックマンは、研究所の活動を調査・研究活動、政府への奉仕、広報の3点と指摘する。

 調査活動においては中央アフリカの現代人、すなわち白人と黒人の両方の社会生活を科学的に分析すること、政府にたいしては社会生活についての正確で科学的な情報を政府やこの地域で人間を取り扱っている専門家に供給すること、広報活動としては、できるだけ多くの人々に正確な情報を普及することである。そのために言語クラスや一般向けのセミナーの開催がなされた。また多くの出版物が公刊された。それらはThe Rhodes-Livingstone Journal: Human Problems in British Central Africa, Communications from the Rhodes-Livingstone Institute、そして、モノグラフの体裁をとったThe Rhodes-Livingstone Papersである。

 以下ではグラックマンの研究所に対する考え方がもっともよく表れていると思われる『7カ年計画』(1945年)を検討したい31。

私は進行中の社会過程がまったく破壊的だとは思わない。私の問題設定の妥当性は一般にヨーロッパ人とアフリカ人から成る異質な文化集団が中央アフリカの社会を構成しているということを認めるところにかかっている。多くの確執や不適応があるにしても、そこには明白な社会構造と行動規範があるのだ(Gluckman 1945:9)。

 こうした社会変化、文化接触への関心はアフリカ社会だけでなく、新参のヨーロッパ人やインド人などの他の集団をも考慮した視点を養った。そして宗教や道徳など社会価値への影響にもおよんでいた。そして法律の整備が現地人の発展(教育、家屋、近代的行政、医療、技術など)にとって必要不可欠であるが、そのためには正確な現地の知識が必要だ、と述べている。

 グラックマンは、具体的につぎのような目的達成を掲げる(Gluckman 1945: 7)。ひとつめは、当地域の主要な社会発展をカバーしなければならないこと。ふたつめは、伝統的な社会組織及び近代的な社会組織の両方で比較可能な諸問題を幅広く呈示すること。3つめは、政府が直面しているもっとも重要な社会問題を取り扱うべきであることである。そして1と3を満たすものとして鉱山都市への出稼ぎ民の研究を挙げている。具体的にそれは、1)様々な地域における出稼ぎの影響、2)貨幣経済の影響、3)人口移動、4)社会変化、5)行動に影響を与える要因の研究、6)現代的現象と伝統の両方を視野に入れる必要があるとする32。

 ウィルソンやグラックマンが主張したローズ・リヴィングストン研究所の実用的役割は植民地政府との関係で意味あるものであった。当然政府との関係が問われることになる。

5 人類学者の孤立

 一九三〇年代から四〇年代の『アフリカ』誌や『人間』誌を見ると、当時の重鎮であった植民地官僚のルガード(Lugard 1930)やヘイリー(Hailey 1944)が人類学の意義を強調していることが分かる。しかし、マリノフスキーの一九二九年の論文が翌年反論(Mitchell 1930)されているように、人類学が有用であるという意見はけっして一般的なものとはいえなかった。行政の現場では人類学者はかならずしも求められていなかったのである。

 先に示唆した出稼ぎ民の研究はすでにウィルソンによって先鞭が付けられていたが、にもかかわらず、ウィルソンが求めていたカッパーベルトでの調査は、白人経営者たちからは秩序を脅かす調査として正式に受け入れられていなかった33。代わりにブロウクン・ヒルでの調査が許可されたが、大規模なストライキが起こり、調査は中断される。白人の雇用者たちはこのような調査が、黒人労働者になんらかの労働改善の期待を抱かせるものであると考え、また人類学者たちの左翼的傾向を警戒していたのである。その「実用性」ゆえに、人類学者たちは白人の雇用者たちから疎ましく思われていたのである。当時、異国情緒のある世界からより現実的な状況を対象とする学問として人類学が生まれ変わりつつあったということを考えると、人類学者が新たなフィールドで直面した事態は皮肉なものであった。

 同じ問題をグラックマンも味わうことになる。

 開発計画を確実な根拠のもとでまとめることができるように、社会学的な調査を先にやってくれと依頼する政府高官がますます増えている。・・・共同計画はけっして楽ではない。独立した研究所と政府の間には確執や意見の相違があるものだ。社会学者は、他の役人と異なりいまなお政府の政策になんの責任も負わなくていい「よそ者」である。未来の協力関係は、両者の領分が相互補完的で、ライバルではないと認める人がでてくるかどうかによる。結局のところ社会学者と政府役人とはお互いの貢献度と限度とを認めなければならない(Gluckman 1945:4)34。

 その後の所長報告でも政府との関係について不満を述べている。

 どの程度われわれの資料が政府の方針に影響を与えているのか不明だ。正確な知識は政策の実施に役立つし、また政策の効果を示すことができる。事実とずれがあるときは知識が政策を変更すると期待したい(Gluckman 1948:79)。

 別のところでは、研究所が政府をどの程度援助できるかは研究設備を政府がどの程度研究所に配置するかに直接依拠している、とまで述べて、政府との対等関係を強調している(Gluckman 1945: 28)。

 グラックマンはローズ・リヴィングストン研究所が政府から独立していなければならないとし、その理由を政策に疑義を唱えやすい、現地人との関係において自由な方がいい、非政府組織からの援助を失いたくない、と説明している。そして科学者たる社会学者・人類学者は理論的な問題に集中できることを許されるべきであり、そうでないと科学の発展は遅延する、と述べている(Gluckman 1945: 6)。こうした視点を貫く限り政府との協力は実質的無理であったろう。実際、グラックマンが当初抱いていた人類学の実用的価値を試みるという意図は政府の側に十分に理解されることなく終わり、次節で見るように、このことがかれを若い研究員の教育や理論的方向に向かわせ、そしてオックスフォード大学の職を受け入れた、と理解することもできよう35。

6 研究・教育活動

 すでに指摘したように当初研究所にはウィルソンとグラックマンの二人が研究調査を行う人類学者で、前者が都市部、後者が農村という分業体制を作っていたが、グラックマンの所長時代に研究員(オフィサー)の数は増えることになる。

 以下の文章はグラックマンの教育者としての見解を端的に表している。

 私は短期間だが一つのフィールドに新参のオフィサーを連れていき、アフリカの生活を紹介し、また調査方法について教えようと思っていた(Gluckman 1948: 69)。

 私の計画では、オフィサーはまず、村落や近隣社会と関係づけて親族組織の説明を書き、また彼自身がとくに関心を持っていることがらについての論文を書くべきである。チームが1948年9月にフィールドに戻ったら、各人が未踏の地における親族や地縁組織について調査し、簡単な報告書を提出することを薦める。それから詳細な研究やかれらの調査、他の文献資料に基づいて、私自身が中央アフリカの社会組織についての最初の比較分析を行いたい。この種の研究は理論的にも行政的にも大変重要である(Gluckman 1948:71)。

グラックマンは、かれ自身新鮮に感じたのであろう、人類学者以外の研究者との共同調査や共同で公表する研究成果の重要性を説いている (Gluckman 1948:17)。人類学者が複数で調査することでお互いの研究を知る機会もあった。それは、調査地以外の地域についての知識を獲得するだけでなく、問題点の共有につながり、また限られた地域での民族間の比較を可能にした。研究者はそのフィールドノートを複写して、一部を研究所に保管することを義務付けられていた。その理由は、フィールドノートは将来の比較研究のもとになる資料とみなされていたからである。さらに、調査官には準備のための教育期間も設けていたし、所長が調査技術などをフィールドで教えた。年に一、二度のセミナーで議論する場を与えた。

 以下、具体的に見てみよう。

 1946年からコルソン、バーンズ、ミッチェル、そして経済学者一人の計4名を研究員として雇うことができた。さらに ホールマン が4年間の契約で研究員となった。グラックマンはアフリカに到着したコルソンらを、まずケープタウンで教えていたシャペラの所に送ってそこで調査研究の準備をさせている。それからローズ・リヴィングストン研究所に移って本格的な調査に入る。1946年9月から調査が始まる。研究員の住居がルサカに用意されてなかったのでイギリスで報告書を書くことになった。1947 年9月にグラックマンは研究所を離れてオックスフォードに迎えられた。このためミッチェルらもオックスフォードの学生となって調査の報告書を仕上げ、これに基づいて博士論文を書いている。1948年夏にコルソンやミッチェルが研究所に戻ってきた。そしてコルソンは所長に、ミッチェルは契約を更新する。バーンズはロンドン大の講師となる。

 コルソンの所長時代、一九四八年にM・G・マーウィックがやってくる。さらに1949年7月からカニソンカニソン、1950年からターナーが、1951年10月からワトソンが研究員となる。彼ははじめの半年はマンチェスターで準備し、1952年4月に研究所へ着任している。1年半後の1953年9月にマンチェスターに発ちそこで報告書を書いている。同じ時期に後に所長となるヴァン・ヴェルセンも着任し、やはり1953年10月にマンチェスターで報告書を書き始める。今回はほかに二人の歴史家を1950年9月から雇用し、また1952年末から弁護士であったエプスタインを研究員に雇っている。彼は後に人類学者となってサセックス大学の教授となる。

 以上から明らかなのは、グラックマンは研究員たちに体系的で実践的な教育を施したうえで、調査地に送っているということ、また研究所に研究員用の家屋が用意されていなかったという偶発的な事情からとはいえ調査報告書に博士論文という性格を与えたことである36。こうして、マンチェスター大学に進学した大学院生が、そこで調査準備をして、研究所の研究員となって、復学後博士論文を仕上げるという後年のパターンの原型がコルソンらの場合に認められるのである。1956年までに研究所にはグラックマンを含めて一二名の人類学者が雇われ、そのうちすでに取得していた二名を除く九名が大学で博士論文を提出し、大学に職を得た。この事実は、ローズ・リヴィングストン研究所が応用人類学者や行政官を育てる機関ではなく、大学の教育を補完する調査拠点へと変化していったことを示していよう37。さらに研究所が組織した集団作業・共同活動の経験がのちのマンチェスター学派の形成に結びついたはずだ。

7 その後のローズ・リヴィングストン研究所

 1947年にグラックマンが離れ、実用をスローガンに掲げていたローズ・リヴィングストン研究所は、フーカーの表現を使うなら、「敵対する勢力に包囲されている危ういユートピア」(Hooker 1963: 458-9)へと変貌していった。以下ではグラックマンが離れた六年後のローズ・リヴィングストン研究所が直面した状況を地方紙に掲載された人類学者批判から考察しておきたい。

率直に言って、多くの人類学的あるいは社会学的な研究は「役立たず 」(hooey)だ。・・・人類の正しい研究は人間を相手にすることかもしれないが、不必要にこの研究に骨身を削る必要はない。まして、アフリカの人々にしゃべらせて気楽にさせるために村の生活の水準まで身を落とす必要はない。・・・立派な種類のヨーロッパ人とみなしている科学者たちがまるでアフリカ人のようにふるまっている光景にアフリカ人が遭遇したとしよう、するとかれらはすべてのヨーロッパ人への服従心や尊敬の念を失ってしまう。これは配慮の行き届いた生活様式で尊敬の念を勝ち取ってきた北ローデシアの上品で思いやりのある入植者にとって不公平であろう (「社会学」『中央アフリカ・ポスト』1953年4月10日)

 これにたいし、当時の研究員がただちに反論を述べている。

ところで日常的なインタラクションを通じて人々を観察するためには、かれらと身近に接しなければならない。貴紙の編集長が示唆しているように、親密さはかならずしも軽蔑を産まない(Familiarity does not necessarily breed contempt)38。親密になることで本当の尊敬と理解が生まれるのである。それは肌の色によるのではなく当事者の性格に基づくものだ(ヴィクター・ターナー&M・マカロック 投書「人類学と社会学」『中央アフリカ・ポスト』1953年4月17日)。

これにたいする再批判はつぎのようなものだった。

われわれの見解では北ローデシアで今日行われている調査の多くは「役立たず」である。それらはなんども繰り返しなされてきた。それは知識を生みだしたかもしれないが、本当に新しい知識といえるだろうか。そこには学問的な価値はあるだろうし、調査を行っている人々にも価値があるかに見える。しかし、それ以外の人々にはほとんど実用的な価値はない。われわれは行政官や医者あるいは伝道師が、社会学者の中央アフリカの人々についての研究で、その成果を利用したという話を聞いたことがない (編集長1953年4月17日)。

 以上の議論はすれちがいに終わっているし、ターナーたちも実用性についての議論を真正面から取り上げているとはいえない。かれらは真の理解(相互の尊敬)には人種の差異を前提とするつきあいではなく、親密なつきあいこそが大事だと述べているにすぎない。それによって得た知識が一般社会が求めているような実用性のあるものかどうかについての議論はしていないのである。当時中央アフリカは南北ローデシアとニヤサランドが連邦を形成して自治領化するという政治的にはきわめて不安定な事態に直面していた。アフリカ人たちはこれには反対し、人類学者もかれらを支持していた。こうした状況が反発を生み、人類学者にたいして、より「実用的な学問」としての人類学(社会学)を求めたのかもしれない。

 ここで指摘しておきたいのは、白人入植者と現地人との境界を攪乱するという人類学者のふるまいは、研究所内部でも起こっていたということである。たとえば、シューメイカーは、白人たちの反発に反比例して、当時の雇用人たちがいかに人類学者たちのことを愛着を持って追憶していたかを指摘しているし(Schumaker 1994: 218-235, 1996)、また一部のアシスタントたちーー1937年から64年までにおよそ50名が訓練を受けたーーは独立後研究職に就いている。そこでもかれらを雇用していたローズ・リヴィングストン研究所の人類学者たちへの批判は皆無であった39。

 ローズ・リヴィングストン研究所は1964年のザンビア独立後にザンビア大学の付置研究所となりその名も社会研究所Institute for Social Researchと変わる。さらに1971年にアフリカ研究所Institute for African Studiesとなった40。その後も所長にヴァン・ヴェルセンを迎えるなど、旧ローズ・リヴィングストン研究所やマンチェスター大学との関係が切れたわけではないが、独立後の活動は本論の視野の外にある。ローズ・リヴィングストン研究所が良くも悪くも植民地支配の象徴であったゆえに、同じ大学に類似の研究所アフリカ研究センターが一時設置されたが、これは先の研究所と合併した41。

8 植民地からアカデミアへ

 第二次世界大戦が終わると、古い体質の人類学者や愛好家をかかえていた王立人類学協会とは別に、大学に勤めている研究者からなる社会人類学者連合Association of Social Anthropologistsが結成(1946年)され、人類学の専門化を促進した42。こうした動きの裏には同時に人類学者は実用化への熱意を失った、行政官からの理解を得ることができなかった、という事情もあったと思われる。

 このような動きに応えるかのようにして、グラックマンも北ローデシアを離れ、オックスフォード、そしてマンチェスター大学に移る。しかし、グラックマンはローズ・リヴィングストン研究所と密接な関係を維持する。マンチェスターがグラックマンの拠点となってから、研究所の調査委員で後に所長となるエリザベス・コルソンやクライド・ミッチェルらがマンチェスターに招かれ、さらにバーンズ、カニソン、エプスタイン、マーウィック、ヴィクター・ターナー、ヴァン・ヴェルセン、などが研究所を拠点に調査を行い、マンチェスター大学でグラックマンの指導を受けている。ミッチェルの学生で、都市研究を行ったカッフェラーも忘れるべきではなかろう。

 マンチェスターを拠点とする人類学者たちは後に、後にマンチェスター学派と呼ばれることになる43。グラックマンと同じく、そのメンバーもまたその研究主題として葛藤、過程、儀礼的統合などを選んでいる。そして、後にsituational analysis, extended-case study, network analysis, social dramaなどと呼ばれる独創的な手法を生みだした。さらに、現実的な関心から、都市化、エスニシティ、非アフリカ人への関心、チーフをめぐる政治的問題を取り上げ、統計分析や歴史的な分析を行っている。今日では決して珍しくなくなったこうした手法や視点、対象を開拓した業績をわれわれは忘れてはなるまい。

 こうして、資料の蓄積と独自の視点が提出されるにつれて、その方法論の洗練、諸概念の整理、体系化が試みられていった。内部での対立も生まれたが、メンバーたちの論文集やモノグラフにはグラックマンの前書きが付与され、相互に引用しあい、研究者共同体内部の結束が強まっていった。その結果、1937年に公表された支援要請文書にある「土着民とそうでない人々との間に持続的で満足のいく関係をうちたてられるかという問題」も忘れ去られてしまった。

 しかし、気をつけなければならないのは、実用人類学が忘れ去られる状況で、実用人類学の概念と密接に関係していた社会変化をめぐる議論はなお継続していた、ということである。

 グラックマンは1940年にマリノフスキーの文化接触論の枠組み(Malinowski 1938)にたいして、橋の竣工式における白人と現地民との相互行為を分析した長大な論文(通称ブリッジ論文)44で批判を加えている。それはまたマリノフスキーが批判したモニカ・ウィルソンやフォーテス、シャペラらの研究を擁護するものであった45。

 グラックマンは、マリノフスキーの提唱する「人類学の新しい分野」を批判・発展させようとした。その意味で、マリノフスキーの考えは、ほぼ同時代的にグラックマンに、そして間接的に(実用という意識は弱まっていくが)マンチェスター学派に継承されていった、と解釈できる。これに関して、マンチェスター学派の視点が、後にマリノフスキーの立場に近いフェデリック・バルトのトランザクショナリズムやレイモンド・ファースの社会組織social organization論と後々重なっていくことも示唆的であろう46。

 英国人類学の歴史における応用や実用という概念をたどってきて明らかとなるのは、なによりもそれがかならずしも一元的な統治の知識や統治技術への貢献を意味していなかったことである。未開社会の異国情緒溢れる慣習を収集することに甘んじるのではなく、より現実の社会、植民地としての社会に真摯に関わってひとびとの生活知を理解しようとすればするほど、「実用」的になろうとすればするほど、植民地の秩序の基盤にある隔離政策に触れ(Kuper 1973: 149)、入植者からの反発を受けざるを得なかった。同じように、研究所での現地人との関係もまた直接ではないにしても、入植者や政府役人とは異なる種類の白人の存在を知らしめたといえよう。しかし、一方でこの事実は、本国の大学に拠点を確保できるようになった人類学者にとってフィールドは利害関係の希薄な、一時的な住処でしかなかった、彼の地での生活者ではなかったことを強く示唆していないだろうか。テンプルの応用人類学カレッジの構想から国際アフリカ言語文化研究所の理念へ、1922年のマリノフスキーから1929年のマリノフスキーへ、さらにローズ・リヴィング研究所の設立へという実用人類学をめぐる流れは、社会変化への関心から植民地主義の歴史研究へ、応用人類学から開発人類学へ、各地の地域研究の台頭へと、さらに続くが、それについては今後の課題としたい。

1 1909年アスキス首相との会見におけるハリー・ジョンストン卿の発言(Anthropology and the Empire 1909)。
2「社会学」『中央アフリカ・ポスト』1953年4月10日
3 人類学と植民地主義を真正面から取り上げた先駆的な業績としてAsad 1973とルクレール 一九七六(1972)を挙げることができる。ストッキング編集による1983年のHistory of Anthropologyシリーズ刊行後、人類学を植民地支配の文脈で考察する視点は確立されたと言ってよい。その後の文献については注6を参照。
4 オリエンタリズムと人類学をめぐる議論についてはサイード 一九八六ならびに太田 1993; Kuklick 1991:26を参照。
5 もちろん、そうした事実をもって人類学が免罪されるわけではない。
6 本節と次節については、ルクレール 一九七六、Feuchtwang 1973; Kuklick 1991: Ch 5; Kuper1973 Ch 4; Stocking, Jr. 1995: Ch 8; Urry 1993: Ch 5を参照。
7 詳しくはReining 1962を参照。
8 参考までにフランスは1859年にパリ人類学協会(Societe d'Anthropologie de Paris)を、ベルギーは1882年に、ドイツでは1869年に類似の学会が創設されている。
9 テンプル卿については Kuklick 1991: 196-199; Morrison 1984: 149-153; Urry 1993: 113-115を参照。
10 これとつぎの講演は本にまとめられる前に、かれが編集するIndian Antiquaryで発表されている。
11 他にAnthropological Teaching in the Universitiesと題する1914年2月の会議の記録を参照(Man 1914 No. 35, pp.57-72)。ここではフレーザーもつぎのようにことわりつつ、人類学の実用的な意義を支持している。「即座に言っておかねばならないのは私の人類学への関心は思索が中心で科学的なものである。わたしたちがここに集まっているのは政府に人類学の実用的な意義を知らしめるためである。残念ながらこの方面について私はなんの経験もない。思索を重ねる人類学者には人類学の実用的な側面について語る資格はない」(p.71)
12 ニュー・ヒューマニズムについては Stocking Jr. 1995: 267
13 後者についてマリノフスキーは、創設者ウエッブ夫婦を始めとする当時のLSEのスタッフの研究を念頭においているが、それらについてtheoretical workと表現している(Malinowski 1922: 215 n.1)。
14 以下はKuper 1973: 127-129; Wilson 1940 に基づく。
15 以下の国際アフリカ言語文化研究所については、Lugard 1928, A Five Year Plan of Research 1932, Smith 1934, とくに人類学との関わりについては、Kuklick 1991:209-215; Ritchards 1944; Stocking Jr., 1995: 397-426に依拠している。
16 1922年に発展・開発を柱とするフレデリック・ルガード卿の『英領熱帯アフリカの二重統治論』The Dual Mandate in British Tropical Africaが出版されている。
17 この点についてはFeuchtwang 1973: 83を参照。
18 マリノフスキーと研究所との関係や、ラドクリフ=ブラウンとの確執、その後のマリノフスキーの活動については多くの文献が指摘しているが、研究所との関係については注16参照、マリノフスキーについては、Hogbin 1956, Mair 1956, 最近では清水(一九九九)がある。
19 研究者だけでなく、すでにフィールド経験のある伝道師や役人13名が大学で勉強する便宜も図っている。ロックフェラー財団の助成でアフリカの調査を行った研究者は1934年までに15名にのぼる。
20 この計画はマリノフスキーの1929年の論文に基づいていた(Feuchtwang 1973: 83)。
21 この点についてはRitchards 1944:189(cf. Smith 1934)を参照。またクラウスはそこに新たなapplied ethnologyの可能性を認めていた(Krause 1932)。
22 これにはすでにマリノフスキーの指導のもとで北ローデシアで調査を行っていたA. リチャーズやニヤサランドで調査をしたM.リードが協力していた。
23 本書の意義はアフリカの発展を植民地政策の中心に位置づけていることであり、その背景について考える必要がある(cf. Brown 1979:525)。ただし、すでに明らかなように、社会変化への関心や、人類学への期待は1920年代半ばの国際アフリカ言語文化研究所の設置理念にすでに認められる。*その意義についてはCommittee on Applied Anthropology1939およびCoupland 1939を参照。、
24 すくなくとも1929年の論文では、マリノフスキーが批判した「従来の人類学」に自身のトロブリアンド諸島の研究成果を含んでいたとは思われない。1922年の論文と異なり、ここではフレーザーに代表される古典の素養を身につけた人類学者(フレーザーの進化論や伝播論)が批判されているからだ。「現代の人類学が未開の君主制に関心をよせるのはネミの森の祭祀王をめぐる関心からだった。・・・しかし、われわれは未開部族のいわゆる政治体制について無知である。」(Malinowski 1929:25)あるいは「より多くの観察資料を得なければならないが、それはいかにして制度が生まれたとか伝播したとかではなく、いかに機能しているかという視点から集めなければならない。」( Malinowski 1929:28) たしかに、清水(一九九九)が強調するように、マリノフスキーは後に自身のトロブリアンド諸島の研究も自己批判している(Malinowski 1930, 1938)。しかし、それがどの程度根本的な機能主義批判だったのかは疑問である。たとえばヘイリーによれば、行政官が必要なのは起源ではなく機能を研究主題とする新たな人類学だと述べている(Hailey 1944: 11, cf. Brown 1973:175, 1979: 525)。より一般的には間接統治政策に応えられる人類学は機能主義であった、ということになろう(ルクレール 一九七六、一二一−一二七頁、Lackner 1973)。後のグラックマンによるマリノフスキー批判(Gluckman 1940)は、マリノフスキーの機能主義的立場全般への批判となっている。これらはすべてマリノフスキーの機能主義に断絶を認めない立場といえる。マリノフスキーの論文をめぐってはFeuchtwang 1973とJames 1973も参照。
25 研究所設置をめぐる事情についてはBrown 1973に詳しい。その成果については、注29およびGluckman 1956 を参照。通史は歴代の所長報告およびAfrican Social Research 1977の回想特集に依拠している。 なお、第二次世界大戦後類似の研究所がウガンダとナイジェリアに設置される。
26 南北ローデシア、タンガニーカ、ウガンダ、ニヤサランドなどの政府の他に鉄道会社や鉱山会社が寄付をしていた。
27 グラックマンおよびマンチェスター学派については、Colson 1989, Firth 1976, Mary Gluckman 1976, Kuper 1973:177-190, Werbner 1984, 1990に詳しい。
28 1948年の所長報告でグラックマンはこの支援要請書を引用していることからも、すくなくとも研究所の路線は最初の10年間は原則として変わらなかったと推察できる。別のところ(Gluckman 1945)では、『アフリカン・サーヴェイ』に言及し、それが人類学調査の重要性を強調した点を高く評価している。
29 南 アフリカの当時の状況についてはStocking, Jr., 1995: 323-338が詳しい。
30 研究所時代のグラックマンについては注26およびBrown 1979; Colson 1977aを参照。
31 これ自体ウィルソンの理念を基にしていた(Brown 1979)
32 清水は一九八〇年代に入ってから出稼ぎが人類学の研究対象となったと述べているが、これは明らかな誤りである(清水 一九九九、五五七ー五五八頁)。
33 そもそも鉱山会社は研究所の設立にたいしても疑問をもっていた。ウィルソンが直面した問題についてはBrown 1973が詳しい。
34 人類学と政府との関係のまずさについてはRitchards 1944やLackner 1973も類似の議論をしている。
35 これはBrown 1979の解釈である。
36 ただし、グラックマンは1941年に南アフリカか英国の大学に研究員を滞在させるという考えを披露している(Brown 1979: 532 n.36)。清水によればマリノフスキーも同じ指導をしていた(清水 一九九九、 五四九 注二)。
37 コルソンはつぎのように述べている。「(グラックマンが基礎づけたさまざまな伝統は)また研究所が応用作業から離れて純粋な研究の方向に向かうという新たな展開の予兆となっていた。研究員は各々が第一の参照集団となり、一般の人々ではなく、かれら、およびほかの人類学者や社会学者にたいして報告書を書き始めた。」(Colson 1977a: 293)
38 この言葉はFamiliarity breeds contempt, but it is konowledge that breeds respectというテンプル卿の言葉を想起させる(Temple 1906:2)。
39 政治的にも、人類学者はアフリカ人側にたっていたとみなされていた(Brown 1973: 194)
40 独立後の研究所の活動についてはVan Velsen 1974が詳しい。
41 このあたりの事情についてはNsugbe 1977が詳しい。
42 社会人類学連合はエヴァンズ=プリチャードの主導のもとで生まれ、初代の会長にラドクリフ=ブラウンが就任した。Brown 1979: 539 n.77; Kuklick 1991: 57, 240; Lackner 1973: 138, 141; Schumaker 1994: 119を参照。同年にはエヴァンズ=プリチャードの論文「応用人類学」(Evans=Pritchard 1946)が出て、従来の政府支援というかたちの応用性が批判される。
43 詳しくは注28の文献を参照。その成果の典型としてEpstein 1967を挙げることができる。
44 この論文はローズ・リヴィングストン研究所の研究員にとって必須の論文であった。
45 グラックマンの批判にたいして、後にマリノフスキーの遺稿を編集したケイベリーが代わってグラックマンを批判している(Malinowski 1945: 15 n.3)。これにたいしてさらにグラックマンはその書評で再批判を試みている(Gluckman 1947)。この論争の評価と影響については、たとえばWerbner 1984:161-162やVan Doorne 1984を参照。清水はこの書評に言及して「マリノフスキーの提唱に沿った実用人類学の流れに止めを刺す役割を果たした」また「マリノフスキーの「社会変化」研究を退けると・・・」(一九九九、六一六頁)と断じている。清水は社会変化をめぐる議論と実用人類学とをほぼ同義に扱っているようにみえるが、わたしの解釈では前者については批判的であってもその問題意識は継承されていった(Garbett 1970, Mitchell 1983, Van Doorne 1984, cf. Grillo 1986)。またグラックマンを、清水の解釈によれば英国人類学を戦後より保守的な方向へと舵取りしていたエヴァンズ=プリチャードの補佐と位置づけていることも問題である。
46 Van Doorne 1984は、社会変化に関するグラックマンの弟子たちとファースとの類似性を指摘している。またカッフェラーはのちにバルトの功績を再考する論文集を編集している(Kapferer 1976)。Kuper 73:188,203; Werbner 1984: 176-178も類似の指摘をしている。ほかに一九七〇年のマリノフスキー記念講演(Garbett 1970)も参照。清水は最近の論文(一九九九)でマリノフスキーの視点を一九四〇年に出版されたエヴァンズ=プリチャードとフォーテスの編集による『アフリカの伝統的政治体系』と対比させて、この書物こそ、その後のラドクリフ=ブラウンを中心とする英国人類学の分析パラダイムになるものであり、マリノフスキーの「新たな人類学の分野」は忘れ去られた、と述べている。清水が同じ一九四〇年に出版されたグラックマンの論文(Gluckman 1940)とその影響を視野に入れていれば、マリノフフスキーは(批判的であっても)忘却された、という結論に達しなかったのではないか。すくなくとも「マリノフスキーがシステム志向と対置させた論点はその後の人類学史に生かされることはなかった」(清水 一九九九、五七三頁)という発言もなかったであろう。同じように清水はファースの1944年の講演を高く評価しているが(清水 一九九九、六〇四−六〇五頁)、その流れがまったく途絶えてしまったと結論するのはおかしい。清水自身が、「マリノフスキーの機能主義からラドクリフ=ブラウンの構造機能主義へ、レヴィ=ストロースを介して象徴人類学へ」という日本で支配的な人類学史にとらわれているゆえ、そのような結論に達した、と言えないだろうか。日本においては清水のマリノフスキーだけでなく、グラックマンも、さらにはファースやバルトもしかるべき位置を学説史に与えられていないことこそ問題なのである。日本においては忘却の彼方から呼び戻さなければならないのはひとりマリノフスキーだけではないのである。

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