丸山泰明(阪大大学院)「八甲田山雪中行軍遭難事件死者の靖国神社合祀論争を読む」
 菅浩二(日本学術振興会特別研究員・國學院大學日本文化研究所共同研究員)
    「台湾神社初代宮司・山口透について」

丸山泰明「八甲田山雪中行軍遭難事件死者の靖国神社合祀論争を読む」
 靖国神社に祀られている「神々」について言及される際、死者の選別があることが
しばしば指摘されてきた。そのときたびたび引かれているのは、1868年6月2日
に江戸城内で官軍が執り行った招魂際の祭文で自軍を「皇御軍」、旧幕軍を「道不知
醜奴」と呼んだことであり、すなわち靖国神社で祀られているのは天皇のために死ん
だ者であり、戊辰戦争における旧幕軍の死者は祀られていないことである。だが、
「天皇のための死である/ではない」の二分法の選別基準だけをもって靖国神社の性
格とするならば、それ自体の妥当性は否定しないものの、天皇制国家イデオロギーを
批判するだけの平板な議論に陥ってしまうのではないだろうか。靖国神社の成り立ち
を捉え返す、もう少し厚みのある議論をするために必要なのは、合祀の基準がどのよ
うに形成されてきたのかを歴史的過程の中で跡づけていくことだろう。
 今からちょうど100年前の1902年、青森第五聯隊210人が八甲田山中で雪
中行軍の演習中に遭難し、199人が死亡するという史上類を見ない大惨事が起こっ
た。この遭難事件の死者を靖国神社に合祀する議論が事件直後から政府内に起こる
が、陸軍からの強い意向がありながらも、最終的には否決されることになる。本発表
では、靖国神社への合祀を承認/否認する言説を読み解きながら、合祀しなかった論
理を明らかにし、その上で、合祀否決の論理と結果を靖国神社成立史の中におき、今
日の靖国神社の性格が形成された一面について考察しようとするものである。

菅浩二「台湾神社初代宮司・山口透について」
 官幣大社台湾神社は、台湾総督府下の台北市に、「台湾の鎮守府」として明治34
(1901)年から昭和20(1945)年まで存在した神社である。発表者は既に<祀
られる側>である同神社の祭神、能久親王と開拓三神に注目して、この神社の性格に
ついて考察している。本発表では<祀る側>である初代宮司の山口透について紹介しな
がら、台湾神社に関してさらに述べたい。
 山口は、戦後の神社界からも近代神道史上からも全く忘れ去られた人物であるが、
台湾神社創建より昭和12年まで、実に三十六年間の長きにわたり宮司を務め、引退
の翌年、同社鎮座三十七周年のその日に没している。そもそも神宮教院出身の学校教
師であった彼が、台湾と縁を持ったのは日清戦争中、神宮教より従軍布教師として派
遣され、能久親王率いる近衛師団に随行した際のことである。当時の神宮教機関紙
『教林』には、山口のみならず何人かの神宮教布教師らの朝鮮・台湾などでの従軍活
動が記録されている。
 能久親王は、日清戦争後の台湾平定戦末期に台湾で病没されているが、山口は親王
の台湾上陸から最期まで従っていたただ一人の神職であった。このような山口が宮司
に抜擢されこの神社に障害を捧げたことは、即ち能久親王を祀る神社としての台湾神
社の性格を強く示すものであろう。山口はまた、昭和3年の建功神社創建にも関与し
ている。建功神社は基本的に英霊奉斎施設であるが、軍人に限らず殉職・殉難者多数
を祀る、ドーム型の社殿を持つ神社であった。
 漢学・儒学の素養を有していた山口は、シナ式の寺廟についても信仰の尊重を唱え
ていた。しかしちょうど彼の詩と符合するかのごとく、台湾では「皇民化」の一環と
しての「寺廟整理」がはじまる。そして「皇民化」は一定の成果を挙げたとして、昭
和19年に台湾神社に皇祖神が増祀され、「台湾神宮」と改称されるのだが、翌年の
敗戦の後、台湾の神社は国民党政府により全て廃絶せしめられるのである。