東アジア天文暦算研究会

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藪内清先生のご長逝(『天界』掲載)

 大阪市・宮島一彦

  昨2000年6月2日,本会の元会員で筆者の恩師である藪内清先生が亡くなられた.94歳の長寿を全うされたのだから,杜石然先生(中国科学院自然科学史研究所名誉教授)のお手紙のように,これは「御仙逝」かも知れない.しかしこれからは,自分の仕事を喜んでいただくことも,誉めてくださるのを励みにすることも,お叱りをいただくことも,もうないのである.
  本誌1958年11月号にも「ペルシア美術展から」を寄稿され,出展品のアストロラーブについて紹介されているが,本会会員には先生についてご存じない方も多いと思われるので,ちょっと意味不明のところもあるが,6月6日のNHK ニュースをまず,文字に直しておこう.なお,同日の各紙夕刊にも死亡記事が掲載された.
   中国科学技術史の権威で,京都大学名誉教授の藪内清さんが,今月2日,老衰のため,亡くなりました.94歳でした.藪内さんは,昭和4年に京都帝国大学理学部を卒業して,昭和24年から京都大学人文科学研究所の教授になり,昭和42年から2年間,この研究所の所長を務めました.藪内さんは,中国の天文資料を分析して,現代天文学の解明を試みるなど,古代から近代までの中国の科学技術について,天文学や医学の分野から総合的に研究を進め,中国の科学技術史の権威として知られていました.京都大学を定年退官した後の昭和44年から,龍谷大学で教鞭を取り,昭和48年には科学史の分野で最も権威あるとされるジョージ・サートン賞を受賞していました.
  先生は1906年2月神戸市のお生まれで,旧制大阪高等学校を経て1926年に京都帝国大学理学部宇宙物理学科に入学され,同学科の創設者で天体物理学及び中国天文学史の日本における草分けとも言える新城新蔵先生(同大学総長や上海自然科学研究所所長を歴任,1938年南京で死去)や本会2代目会長・百済教猷先生の教えを受けられた.百済先生の講義を克明にノートに残しておられ,筆者もコピーさせていただいた.このおふたりの講義を聴かれたことや,当時,京都で中国学の大家が多く活躍していたことが,先生を中国天文学の研究に向かわせたが,御自身は「・・・私の人生には数々の失敗があった.・・・人生は物理実験のようなものだ・・・失敗すれば改めて出直せばよい.・・・私が中国の天文学や科学の歴史を専攻するようになったのも,・・・失敗の結果と言えるであろう」と書いておられる.
  宇宙物理学科の先輩に本会3代目会長・能田忠亮先生がおられ,藪内先生が1935年から東方文化学院京都研究所(後,東方文化研究所,1948年からは京都大学付属人文科学研究所となる)に勤務されるようになったのは,能田先生のお世話による.おふたりの共同研究の成果として『漢書律暦志の研究』(全国書房,1947.復刻版・臨川書店,1979)がある.また,先生の学位主論文『隋唐暦法史の研究』(三省堂,1944.増訂版・臨川書店,1989)には能田先生が序文を寄せられた.これらの方々以外にも,渡辺敏夫先生や広瀬秀雄先生など,先生が薫陶を受けたり親交を結んだ優れた恩師や先輩・友人は多く,後年,折に触れては敬愛を込めてその思い出を語られたり,文に書かれたりした.全相運先生(元・韓国科学史学会長)は常々「東に京都大学の藪内先生あり,西にイギリス・ケンブリッジのニーダム先生あり」と言っておられたが,藪内先生はそのニーダム先生に,中でも特別な敬意を払われ,両先生は学風は異なるが,互いにその偉大さを認めあっておられた.ニーダム先生(1900〜95)は能田先生(1901〜89)より2ヵ月ほど早く生まれ,中国にかつて優れた科学技術があったことを欧米に紹介して,何度もノーベル賞候補に挙がった人である.
  京大人文科学研究所では個人研究のほかに共同研究の義務があったが,中国天文学史という狭い領域で研究班を組織するのが困難なこともあって,先生の活動範囲も中国科学技術史一般から,更に日本科学技術史に広がり,ニーダム先生とは違ったスタイルの共同研究を展開された.筆者が1968年3月に初めて研究所で藪内先生にお目にかかった時,「天文学史だけではやって行けないのでね」とおっしゃっていた.『科学史概説』『天文学史』(いずれも朝倉書房,1965および1955)『一般天文学』(恒星社厚生閣,1963)など,広範囲を扱った著書もある.1979年4〜9月の教育テレビ「NHK 大学講座」のテキスト『中国科学技術史』は後に大幅に増補されて『科学史からみた中国文明』(日本放送出版協会,1982)となった.『中国古代の科学』(角川新書),『支那の天文学』(恒星社厚生閣,1943.『中国の−』と改題して,1949)はトピックスを時代順に並べたもので,個々の話がよくまとまっていて興味深く読める.それぞれ,中国語,韓国語に訳された.中国科学の通史『中国の科学文明』(岩波新書,1970)も韓国語に訳されている.
  『隋唐暦法史の研究』の中で取り上げられた「九執暦」はインドの天文学を伝えるものであり,その理解のために先生の関心はインド天文学に及び,更にそれがもっと西方の天文学の影響を受けたものであることから,プトレマイオスの古代天文学の集大成『アルマゲスト』の邦訳(恒星社厚生閣,上1949,下1958,合冊再版1982)にまで発展した.ニーダム先生のブルドーザーのような研究活動とは対照的に,藪内先生の御研究は精緻という言葉がふさわしい,少数精鋭の密度の濃いものであるが,それでも著書や論文の数は膨大で,重要なものだけでも,とても紹介し切れない.最も代表的な著書は『中国の天文暦法』(平凡社,1969.増補改訂版,1990)で,朝日文化賞を受賞された。同じ題で1979年に宮中の講書始めの儀で御進講しておられる.ニーダム博士が「編暦の全歴史は・・・科学的な興味に乏しい」と『中国の科学と文明』邦訳第5巻(思索社,1976)に書いたその暦法こそ,中国天文学の本質であり、政治イデオロギーと結びついて重要な意味をもつことを藪内先生は明らかにされたのである.
  訃報は講義に出る直前,家族から研究室に入った.京都産業大学の矢野道雄教授(インド科学史)から連絡があったという.矢野氏が京都大学大学院文学研究科インド哲学専攻修士課程2年,筆者が理学部宇宙物理学科4年の1968年,京都大学人文科学研究所の当時の本館(現在は北白川分館)の,先生の研究室の隣にあった科学史研究室で,2人だけで肩を並べて「天文学史特論」(大学院理学研究科宇宙物理学専攻用の講義)を受講して以来,ともに先生のご教導を受けて歩んできた.1977年に弟子入りした,当時京都大学大学院文学研究科中国哲学専攻の川原秀城氏(現・東京大学教授、中国数学史)との3人が先生の最後の弟子で,また,先生が最も関心を持っておられた分野に近いところを研究対象にしたこともあって,先生のお宅でたびたび勉強会を開いていただき,学問上だけでなく,さまざまな貴重なお話を伺った.そんなわけで,晩年はこの3人だけがお宅に「お出入り自由」だったが,川原氏が東京に移って後は,矢野氏が筆者を誘って月に1度程度ご機嫌伺いに参上するのを,先生も楽しみにしてくださっていた.矢野氏は家も先生と同じ左京区にある上,研究能力や業績を先生から高く評価されており,人柄と各国語の堪能さに,先生御夫妻も最も信頼を寄せられていた.昨年正月に矢野氏夫妻と年始の挨拶に伺ったとき,奥様とともに車のところまで我々を見送ってくださり,手を振られたのが筆者にとっては最後だった.2月に矢野夫人がお宅に伺った時には,『中国の数学』(岩波新書,1974)の,出版されたばかりのフランス語訳を持ってこられて,お喜びのご様子だったそうだが,それからまもなく入院されたようである.
  お通夜・御葬儀は出来るだけ内輪でとの御意向で,御遺族以外への連絡については矢野氏に一任され,氏はまず筆者に知らせたのである.講義を終えてすぐ,お通夜に向かった.翌日の告別式の御遺族以外の参列者は,矢野夫妻・川原氏・橋本敬造氏・筆者のほかほんの1〜2名だった.橋本氏は宇宙物理学科の筆者の先輩で,藪内先生のもとで10年間ほど助手を務められた.
  1986年3月,筆者は悪性中耳炎の3度目の手術(13日)のため京大病院に入院した.手術後初めての見舞い客は教え子のO君で,絶対安静が解けた16日のことだった.まもなく病室の入り口に人の気配を感じて目をやると,花束を抱えた藪内先生の温かい笑顔があった.思わず涙が溢れてきた.あの時の花束にあったシャガは玄関先に置いたプランターに根付いて,いたずら者にむしられようが折られようが,また芽を出しては毎年きれいな花を咲かせている.

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  体調不良が続いたうえ,あまりに大切な恩師のこととて,追悼文の執筆が遅れ、編集部の方々を始め早々に追悼文を寄せられた諸先生にご迷惑をおかけしたことをお詫びします.一周忌には全相運先生や数人の弟子が集まりお墓参りをしました。