<自分史その1>

 学歴を見ればわかるように、理系から文系へ学士入学組である。工学部時代は、紛争が終わってしまった大学は荒廃していて、ストライキだけが存続しており、教官も後遺症に悩んでいて授業をやってくれなかったから、その無味乾燥な空気になじめないで、下宿生の趣味世界を逍遙し、試験期間が終われば僻地放浪の旅に出かけていたから、工学部をやめたのはあてのない「ドロップアウト」であり、文学部はたまたま迷い込んだ仙郷ユートピアだった。
 所属していた電子工学部といえば、昭和50年前後の花形で、卒論のゼミは板谷良平研研究室で、核融合の研究グループに加えてもらっていたから、科学の最先端に立っていたことになる。直属の先輩である広沢さんは、ある先端研究所に公募した際にちょっとひどい扱いを受け、博士課程に進学して研究者の道を選ばずに京セラに就職したが、そのことを「都落ち」と嘆いたように記憶する。しかし、京セラのそれからの躍進を考えれば栄進であったし、98シリーズのパソコンで一世を風靡したNEC等に就職した同僚はみんないい想いをして重役になっているにちがいない。まさに工学部電気系学科の黄金期であった。私も実は、大手私鉄会社に就職が内定していた。だから、留年もせずに卒業しながらどうしてそんな転身したのだろうかということになる。理系の勉強がイヤになったわけではなく、今でも現代数学や先端科学の専門書を愛読しているし、卒論をはじめとする実験は時間拘束が長いことを除けばとても楽しかった想い出ばかりだ。
 一方、学士入学した先は、文学部の中でも最もマイナーな中国哲学史研究室で、教養から進学してくる学生が毎年一人いるかいないかというところであった。先端科学から最も前近代的な儒学社会へと身を投じたと考えれば、疑問に思うのも当然である。就職をやめるのを決意してから、文学部に行こうと学士入学の願書を出すまでは4ヶ月の空白があった。文学部にどのような学科や専攻があるかを知ったのは、卒論を書き終えた2月に、文学部心理学科にいた知り合いに偶然にばったりあって、学生便覧をみせてもらったことから始まる。それは実に偶然であり、その知人もあるきっかけで話すようになった顔見知りであったが、連絡先も知らないし、一緒に酒を飲んだりしたこともない。つまり、工学部から文学部へと連動しているのではない。まったくの偶然である。彼とはその後会ったこともないが、今日の自分を生んだ導師の一人で、感謝している。
 就職をやめて、工学部を「卒業」し、別天地にいくことを決めた若かりし頃の自分には、それなりの動機と目論見があった。しかしながら、今から振り返れば、そのような落ちこぼれて脇道に逃げ出した青春の「挫折」が、新大陸への「冒険」になったのは、生意気な青二才の我が儘を寛容に見捨てることなく許容してくれた偉大な恩師が工学部にも文学部にもおられたお蔭であったと思う。
 文学部での恩師は、言うまでもなく湯浅幸孫教授。偉大な先生と助手だった西脇常記現京大教授、そして当時の中国哲学史研究室の先輩達に出逢った時は、ほんとうに衝撃的なカルチャーショックだった。一方、工学部の恩師は、卒論ゼミの板谷良平教授と直接に指導してもらった八坂保能助手(今はもちろん教授)はほんとうにやさしい眼で見守ってくれたし、松原助教授をはじめ電気系の諸先生方にはほんとうにかわいがってもらった。卒業後も技官だった久保寔さんには家庭教師を紹介してもらったし、その後に同じ公務員宿舎にも住んでいたこともあって、事務におられた奥様ともども、とてもお世話になっている。板谷研の研究室は建て替えでなくなったが、赤煉瓦の入り口は今でも存在し、その前を通るたびに、工学部時代の人々の慈悲深い眼と微笑む顔を想い出す。先生方ばかりではない。落ち葉を掃き清める掃除のおばちゃんは隣の建物に通う卒業生の私にいつも笑顔で挨拶してくれた。事務のお姉様達は中庭の木から鳩の巣が落ちて、雛が死にそうになっているのを助けるような心優しい人ばかり・・・つまり、研究者としてのスタートは、工学部電子工学科の板谷研にあると言っていいだろう。(続く)