ヨーロッパの開戦100周年イヴェントを新聞・雑誌で瞥見した限り、やはり目についたのは、ヴェルダン、リエージュ、モンス、等、西部戦線の激戦地における一連のセレモニーだった。イギリスやベルギーの王族も列席する場でイギリス、フランス、ドイツの首脳が握手をし、大戦という苦い対立の経験を直視・克服して今後とも和解と友好を深めよう、との趣旨の演説をする、ほぼ一様にこうした内容である。どうにも気になるのは、自分たちは忌むべき過去を乗り越え、EUを通じて平和的なヨーロッパを実現してきた、というトーンが前面に出されることである(多くのEU懐疑派を抱える保守党主導の連立政権下にあり、EU離脱を唱えるイギリス独立党UKIPが人気を集めているイギリスの場合、EUへのスタンスはやや微妙だが)。EUの達成をどう評価するにせよ、総じて視野がヨーロッパに限定され、ヨーロッパ外にまで思いが至らない印象は否めない。

シンボリックなのが、モンスにおけるセレモニーでベルリン・フィルとロンドン交響楽団が初めて合同演奏をした(厳密には、事前の録音を流した)ことだろう。かつて敵同士として遭遇した戦場で、ドイツとイギリスが今度は平和の調べをともに奏でるのだ。選曲されたのは、ブラームス「ドイツ・レクイエム」の終楽章とソンムで戦死したイギリス人作曲家ジョージ・バターウォースの歌曲集「シュロップシアの若者」、指揮者サイモン・ラトルはベルリン・フィルの監督を務めるイギリス人だから、2つの国の友好を印象づけるうえでたしかに適役といえる。この夢の共演にはヨーロッパの内向きの自己満足が濃厚に漂っているように思えてならないが、しかし注意すべきは、もはやベルリン・フィルもロンドン響も「ドイツの」「イギリスの」名門オケとはもちろん、「ヨーロッパの」それとさえ必ずしもいえないことだろう。たとえば、ベルリン・フィルのコンサートマスターの1人は日本人であり、両オケとも世界中から奏者をリクルートしている。「ピュアなヨーロッパ芸術」は今では想像の中にしか存在しない。

第一次世界大戦が史上初の真の意味での世界戦争であったことを、ここであえて繰り返す必要はなかろう。ヨーロッパで自足する視点をとる限り、過去の直視も克服も十全ではありえない。あるいは、2014年に100周年イヴェントを催すこと自体が、西欧的発想に基づいているのかもしれない。ヨーロッパのいわば「辺境」であるベオグラードに立つ大戦記念碑には、1912 to 1918 との年号が刻まれているという。

◆ 小関隆(京都大学人文科学研究所准教授|近現代イギリス・アイルランド史)
https://www.zinbun.kyoto-u.ac.jp/hub/zinbun/members/koseki.htm