古典のなかのアジア史

班長 籠谷 直人

18世紀後期までの1人当たり生活水準において、イングランド、中国の揚子江下流域、そして近世日本の摂津では、大きな差がなかったという。18世紀までの中国では、私的所有権がなくとも、比較的安全な財産権と要素市場が発達していたのであり、19世紀の世界史からみれば、イングランドと揚子江下流域は、同じスタート地点に足を置いていたことになる。そうであるならば、人類の営為のなかで、19世紀になって、なぜイングランドが「分岐」(産業革命)したのか、という問いとともに、なぜ揚子江デルタがイングランドのように分岐する必要がなかったのか、という問いもなりたつ。

こうした比較史は、イングランドが還大西洋圏経済とアジアを包摂する「海洋帝国」となり、中国やインドは、広大な土地資源に根ざした「農業帝国」であった、という差異をも含意している。両帝国は、人の移動に寛容であり、要素市場としての労働力の移動も顕著であった。ヨーロッパ人が開拓した「北アメリカ」と、中国人が強く関与した「東南アジア」を比較することは可能である。

北アメリカと東南アジアは、19世紀後半の移民の8割を受け入れた。ユーラシア大陸の両端は移民の送り出し元であり、南アジアもふくめて、人の移動がその生存基盤を提供していたことを示唆している。移住先では、グローバルな農業ビジネスの勃興がみられた。グローバルな穀物市場を生み出したのは、東南アジアでは、中国人とインド人らであり、北アメリカでは黒人奴隷を用いたヨーロッパ人らであった。移民らは、大型哺乳類を駆逐し、多様な生態系を単一の植生にかえた。そして栽培した大半を、自分たちの母国に輸出しながら富を蓄積した。移動をふくむ人類の生存基盤の径路をアジア史の古典研究から問い直してみたい。


班員
岩井茂樹、田辺明生、坂本優一郎
【所外】陳 來幸、木谷名都子、神田さや子、川村朋貴、溝口 歩、西村雄志、大石高志、城山智子、杉原 薫、谷口謙次、上田貴子、脇村孝平、藪下信幸