班長 浅原 達郎
2004年4月に,「中国古代の基礎史料」共同研究班として発足して以来,12年がたちました。人文科学研究所の共同研究班ですので、3年を区切りとして、2004年4月から2007年3月までは単に「中国古代の基礎史料」班でしたが、2007年4月から2010年3月までは「銀雀山漢墓竹書残簡の整理」,2010年4月から2013年3月までは「上海博物館蔵戦国竹書を読む」、2013年4月からは「清華大学蔵戦国竹書を読む」というテーマをこれに加えてきました。そして2016年4月からのテーマは「楽しんで読む戦国竹書」となります。「楽しんで読む戦国竹書」というのは、たまたま2013年6月1日の東方学者会議・関西部会というところで、なにか話をしなければいけなくなったときに、設定したテーマです。ふざけるなと叱られはしないか心配でしたが、無事に講演が済みましたので、気に入って、というか居直って、研究班のテーマにも使ってしまうことにしました。その主旨は、関西部会で配布したプリントの冒頭に、
中国では、戦国時代のものとされる竹簡に記された書物の公表が相次いでおり、郭店楚墓出土のもの、上海博物館や清華大学に購入されたものがよく知られている。科学的発掘によらないものが半ば以上を占めるのは残念だが、これまで見ることもできなかった書物をそこで読むことができるのは、幸いであるこというまでもない。ただし、いったいどのような類いの書物であるのか見当もつかずに、とりあえず読み始めたというのが,おそらく多くのかたの実感ではなかろうか。
わたしは、すこし遅れてこれらの竹書を読み始めたのであるが、そのなかにときおり通俗的な匂いを感じることに強い印象を受けた。それは上海博物館のものに顕著であり、たとえば対話形式の諸篇に含まれる、単にもったいをつけたような不要なやりとりは、やりとりの妙を楽しむ以外に、意義を見いだせないのではなかろうか。そればかりか、叙述形式の諸篇のなかにも、なにかを主張していると思うと論旨を汲み取りがたいが、娯楽のための読みものと思えばなかなか楽しいではないかというものがいくつかあった。このような作品は、どうしても読まねばならぬものでもなく、自然と淘汰されて、後世には伝えられないのが当然である。しかし、本来ならばそのへんに捨てられていたようなものが、二千年以上もたってたまたま地中から掘り出され、いつの世にも娯楽のための読書のあったことを証明してくれるというのは、まさしく奇遇である。個人的な好みの問題にもなるが、なかには佳作といえるものもある。文学史のうえでの位置づけはともかくとして、まずは楽しんで読むことを、われわれは試みるべきではないだろうか。
と書いたとおりです。ひとつ補うと,清華大学の竹簡にも、楽しんで読むべきものの多いことを、感じています。
班員 宮紀子、守岡知彦 |