マネーショットの光と影(これは報告原稿の一部です、引用は禁止します)
                    田中雅一(京都大学人文科学研究所)

 「男として、射精は性交の究極だ」(ハイト、一九八二、一一四頁)
 「男の価値の第一は精力家であること。ペニスを力強く勃起させて妻を喜ばせることができなければ、男として見放されてしまう」(阿部、一九九七、一二頁)

 一 性科学書・性マニュアル
 本章で目指すのは、男性(とくにヘテロセクシュアリティ)の性体験の中核に位置する勃起、射精、それによって排出される精液についての支配的な言説の分析を通じて、それが前提とする男性像を明らかにするとともに、新たな可能性を探ることである。まず一般向けの性科学書・性マニュアル、つぎにポルノグラフィーを検討する。
 成人男性の性欲や勃起、射精、精液はきわめて「自然」な過程であり、このどれかが欠けていても「病気」である。精液は睾丸で自動的に生産されてたまっていく。射精が三日周期であるという言説は古くからある。精液が三日で満タンになるからこれを排泄しなければならない(小田、一九九六、一一頁)。これは放っておくと性欲が増し、精夢で放出される(夢精)。それを避けるためには定期的に吐きだす必要がある(自慰・買春・強姦)。
 このような男性のセクシュアリティについての考えは根強い。たとえば一九八〇年と八一年の調査をまとめた『モア・リポート』で二〇歳の女性は「自分が欲していない時、パートナーからセックスを求められたらどうしていますか?」という質問に「時によって応じます。男性って女性と違ってある程度精液がたまるとセックスせずにはいられないでしょう。そんな時、「私、イヤ」って一方的に断るのもかわいそう。生理上しかたがないもの」と答えている(モア・リポート班編、一九八七、五一ー五二頁)。
 この自然化の言説の延長線上に生理的な欲求に基づく排泄行為としての性行為という語りが位置する。そこでは女性は便所あるいは(ふしだらとされる女性や売春婦については)公衆便所にたとえられる。そして、性行為自体が女性を辱め、汚す手段として位置づけられる。そこでは性行為はしばしば暴力的な形をとり、それが男性の快楽であるだけでなく、女性にとっての真の快楽でもあることが強調され、その結果男性の暴力が容認される。本論ではこのような排泄としての射精およびそれを前提とする自慰、買春、強姦などをめぐる男性のセクシュアリティ一般についての言説を「排泄ー支配系言説」とよぶ。
 だが、現代ではもはや女性を便器のように取り扱うわけにはいかない。一晩に何回も射精をしたり、何人もの女と寝ることではなく、女性に十分な快楽を与えることこそ男性性の証明となっている。なるほど射精は「性交の究極」で、女性はその手段にすぎないかもしれない。が、冒頭に引用した阿部の文章からも分かるように、重要なのは長時間勃起するということと、女性に快楽をもたらすさまざまな技巧である。このような言説をここでは「排泄ー支配系」に対して「快楽ー支配系」とよぶ。女性に快楽を与えるために自身の欲求充足を遅延する、与えること自体が自らの快楽となるような態度をめぐる言説である。勃起不全(インポテンス)にくわえて短小や早漏、その原因とされる包茎が問題視されるのもすべてそれらが女性を十分に満足させないという結果を生むからである。排泄ー支配系と快楽ー支配系言説の基本的な相違は前者が男性中心的、後者は女性中心的ということだが、後に見るようにこの二つは根本的に対立する言説として対比されることは少ないし、さまざまな次元で矛盾の解決が試みられている。この点を確認したうえで以下、勃起、射精、精液についての医学的言説を吟味する。
 まず勃起についての一般向けの医学書『男と女事典ーーSEXのすべてがわかる』の言葉を紹介しよう。
 「大きいペニスの持ち主が精力が強いとは必ずしも言い切れないのです。それより重要なことは、勃起力です。勃起力とは、拡張力、硬さ、勃起角度を総合したものをいいます。・・・性的結合の際、膣との角度の関係から、ペニスが水平より上向きになっているほうが好都合といえます。ペニスが上向きの角度であれば、亀頭が膣の前壁に突きあたり、いくぶん下向きにさせられるため、刺激が強まり勃起を長引かせることができるからです。・・・さらに勃起の角度は硬度に比例します。硬い人ほど角度が高く、それだけ女性を喜ばせることができるというわけです。」(外森、一九八九、二一−二二頁)
 ここでは勃起ーーその角度、持続、硬さーーが女性を満足させる能力と関連づけられて論じられていることに注目しておきたい。
 勃起は男性の力を象徴する。「勃起力、拡張力、持続力、回復力」(外山、一九八九、二〇ー二四)、「男根の拡張力、貫通力、発射力」(レオナード、一九八六、一八五頁)など、男性のセクシュアリティについての表現には、「力」という文字があふれている。この力こそ男性の権力である。「男性の権力よ永遠なれ!勃起したペニスよ永遠なれ!」というわけだ。
 このように考えると、勃起と射精とのまなざしの相違が明らかとなろう。とくに快楽ー支配系の言説の場合、(先の引用でいえば発射力を体現しているとはいえ)射精は勃起の終焉であり、性行為そのものの終止符である。その意味で勃起が象徴する男性らしさの否定を意味する。射精は男性性の永遠さを示唆するというよりはそのはかなさ、一過性を知らしめるのである。男性にとっての性的快楽は射精そのものにあるといっても間違いはないだろうが、それは快楽を与える存在たる男性性の否定を意味する。
 射精はしたがって快楽ー支配系言説において否定的な生理現象ということになる。『男と女事典』には射精についてのまとまった記述はないため、類似の医学書から引用することにしよう。
 「 ・・・さらに興奮するとオーガズム期に入り、副睾丸が収縮して精子が精嚢線にたくわえられます。この瞬間、男性はもう射精したいけどまだ我慢できるとわかります。・・・そしてついにガマンできなくなったときが、射精の瞬間です。精子は尿道を通り、亀頭を通過して噴出します。この瞬間、ペニス全体がいっきに収縮して、激しいオーガズムが身体を貫きます。このときの収縮は0・8秒間隔で数秒続きます。ほんの短い時間ですが、一瞬とも数分とも思える、時間を超越したエクスタシーが得られるのです。絶頂期に達してからもふたたび快楽への階段をのぼれる女性と違い、男性器は射精後徐々に元へ戻るだけ。これが退消期です。収縮していた睾丸は伸び、ペニスも陰嚢もやわらかくなっていきます。・・・(挿入後)射精までの時間の平均は約五分。射精される精子の量は1ccー6ccです。」(志賀、一九九五、一三一−一三三頁)
 「男性の60%は「自分のオーガズムは単調で瞬間的である」と思いこんでいる。たしかに肉体の反応も全身的なものではなく、女性のオーガズムとは比較にならないほど部分的に起こる感覚である。肉体に起こる男性の性的反応は、興奮期、平坦期、オーガズム期、消退期の四段階に分けられる。射精過程の第一の特徴は精液を排出するために各器官が収縮し、精液が尿直前立腺に集まるのだが、この段階で男性は、それまで我慢していた射精をもはやこれまでと感じるようになる。第二の特徴は、尿道括約筋の収縮と精液がかなりの圧力により、尿道海面体部を尿道口に向かって射出されていく感覚である。量が多ければ多いほど、強烈なオーガズムが得られる。」(加藤、一九九一、七六−七七頁)
 上記の二つの引用文はともに、射精による男性のオーガズムが部分的・瞬間的なものであるということを示している。そして射精について我慢ということばが(はからずも)使われていることに注目したい。このような客観的記述においてさえ、持続的な勃起と性交によって女性を喜ばせなければならないという男性の側の義務感が認められるのである。「夫と妻とが一緒にクライマックスをむかえられたらベストだ。」とか「妻がいいというまで射精したことがない。」「女性がオーガズムに達していいとシグナルを送るまでは射精すべきでない。」など、『ハイト・リポート 男性版』(ハイト、一九八二、一一〇−一一三頁)にもそのような男性の意識が生々と描かれている。
 射精時に排出される精液の量は男性自身の快楽に関係するであろう(加藤、上記引用箇所)。また、それが女性の快楽にも結びつくかもしれない。
 「たっぷりと精液があると、性感も豊かになり、それだけ勃起力を高めることにつながると考えられます。」(外森、一九八九、二三頁)
 その結果女性も満足する。だが、これは、精液そのものの価値を示しているのではない。排泄ー支配系の言説にあっては精液は男性による女性の支配を示す手段であり、また痕跡であるが、快楽ー支配系の言説において射精や精液が中心的な役割を果たすことはほとんどない、といってもいいだろう。それは、欲しない妊娠を引き起こすものであり、ベッドシーツを汚すもの、そしてオーラルセックス時においてはとても飲み込める代物ではない。
 しかし、過去には射精もまた女性に快楽を与える重要な要素とみなされていた。そして、一般的ではないにしても現代でもそのような証言に出くわす。
 『完全なる結婚』の著者ヴァン・デ・ヴェルデは女性はしばしば射精と関係なくオーガズムに達する、ことを認めているにもかかわらず、「正常な夫婦の交わり」では射精が女性のオーガズムの重要な要素である、と主張する。一つは射精時に生じるペニスの筋肉の収縮、もう一つは精液の膣壁への衝突である(ヴァン・デ・ヴェルデ、一九八二、二二五頁)。したがって、中絶性交(外出し)は女性に快楽を与えない不完全なものとしてきびしく非難されている。
 また『ハイト・リポート 男性版』にも「僕の経験によれば、女の子は、男が中でロケットを打ち上げるとうれしがって射精している間すごくいい感じだと口で言ったり、動いて見せたりする。」という証言がある(ハイト、一九八二、一一七頁)。 ここでは射精や精液が女性の快楽を誘発するものとしてとらえられている。
 
二 ポルノグラフィー
 男性のセクシュアリティをめぐる言説はポルノグラフィーと密接に結びついている。というのも定期的な排泄手段と位置づけられた自慰に必要なのがポルノグラフィーだからである。ポルノの中では女もまた男なしでは我慢できない依存的な存在である。男が求め、それ以上に女が求めている。これがポルノが描く「真実」である。男性のセクシュアリティについての言説は女性についての一面的なーー男性にとって都合のいいーー言説を生み出している(田中、一九九七)。
 マーカスはポルノグラフィーの古典的研究『もう一つのヴィクトリア時代』において、『好色なトルコ人』を分析しながら、そこで描かれている男性のセクシュアリティの中心観念は女性をペニスで支配することであり、その中心的な役割を果たすのが「無限の力をもった魔法の道具」(マーカス、一九九二、三七三頁)であるペニス(厳密にはファロス)だ、と指摘している。
 マーカスの所説に依りながら、北山も「ポルノにおいて男性は永遠に勃起する終わり無きペニスの所有者として描かれている」(北山、一九九四、四二頁)と述べる。それは超男性であり、ファロス(陽根)そのものなのである(注一)。もちろん、ヴィクトリア時代におけるこうした勃起中心の言説と現代の快楽ー支配系の言説とを単純に同じものとして結びつけるわけにはいかない。それは男性の力の誇示、女性を痛めつけるような道具の誇示かもしれない。だが、現代では快楽ー支配系言説に依拠した勃起の強調とそれが与える快楽を求める女性という図式が顕著となっている。
 快楽を与え続けるペニスが具体化したものがバイブレータだ、ということもできよう。それは、勃起が永遠に続かないこと、したがって男性性のはかなさをみずから認めているといえる。しかし、ポルノグラフィーにおいては強調されるのは無理を欲する女性の性である。女性のあくなき欲求の証としてバイブが現れる。しかも、それはあくまで代理であって「本物」にはかなわない(ということになっている)。
 射精は勃起の終焉を意味し、多くの場合性行為そのものに終止符を打つ。したがって、ポルノグラフィーの支配的な語りを裏切るものなのである。
 「それ(射精)は男性が女性にたいして行う男性中心の性のイデオロギーがしばしば主張している、占有、貫通、所有という行為に失敗した結果得る欲望を表しているにすぎないのだ。」(Williams,1989, p.113)
 そのためポルノグラフィーで強調されるのは男性のオーガズムとしての射精ではなく、精液を受けることもまた女性の快楽であるというメッセージである。映像に限れば、それはカム・ショット(cum shot)あるいはマネー・ショットとよばれる描写であり、ペニスと放出される精液、口を大きくあけてそれを受け取ろうとする(恍惚状態にある)女性の顔が描かれている。日本では顔射という行為に近い。カム・ショットや顔射では男性の快楽は女性に転移されている。男性のオーガズムを引き起こす射精さえも、ここではその主体が入れ替わっているのである。そこにあるのは男が与えるものはすべて女性にとっての快楽であり、女性はそれなしには性的に満足ができないという一方的な言明なのである(注二)。
 厳密に言えば、カム・ショットはフェラチオとは異なるが、両者の類似性は注目に値する。後者の場合もまた快楽を受けているのは男性であるが、フェラチオを求めているのは女性であり、フェラチオによって快楽を得ているのは女性なのだ。しかし、それだけではない。精液を顔や口に受けるということ、それは男女間の力関係を確認する行為でもある。
 「精液を飲み込むのは、女性にとっては茨の道だ。・・・飲み込め飲み込まないの裏には、男女のパワーゲームが隠されているようだが、それはともかく、自分のしたくないことを無理にする必要はない。」(アンダーソン&パーマー、一九九八、一〇六ー一〇七頁)
 これは、女性を辱めるような排泄ー支配系言説である。さらに言えば、顔射やフェラチオにおいては排泄ー支配と快楽ー支配という二つの言説が重なると言える(注三)。
 マーカスはポルノグラフィーにおける大量の精液についての描写にも触れている。
 「(性を中心に世界が組織されている)ポルノトピアを構成するもう一つのファンタジーに、精液がある。『ある外科医の好色な体験』には、このアイデア例に満ちあふれている。語り手は、「彼女の小さな胃(膣)から太腿まで、精液のまさに超自然的な大洪水でびしょ濡れにした」と書いている。彼は、「湯気の立つ勝利の跡」を注意深く除けながら起き上がった。また別のところでは、「・・・私のプリックは、彼女の体の奥深くを貫き、精液が洪水のようにあふれ出した」。そうして水浸しにされた女が立ち上がった時には、「ポタポタと大きな音を立てて、精液がカーペットの上に落ち、彼女の美しい内腿に、精液が伝い流れていた」。・・・彼(語り手)は自分自身のことを、「もっとも多量の精液のシャワー」を降らせることができるものと豪語している。」(マーカス、一九九二、四二一−四二二頁)
 つまり、ここでは精液の量が勃起に代わって男らしさの記号となっているのである。これについてマーカスは当時、精液の放出を浪費とみなす医学的見地にたいするユートピア的言説として意義があると述べている。
 類似の描写は現代のポルノビデオにも認められる。その典型は一九九五年から始まった『ざーめんくらぶ』(Maniac Video)シリーズである。性行為はあくまで二次的なものにすぎない。バケツ一杯の精液(とおぼしきもの)で女性の体は頭からすっかりまみれてしまう。あるいはフェラチオによる数分毎の射精で精液まみれになる女性。精液を体中にーーほとんどの場合着衣のままーー浴びせられ、徹底的に辱められる無力な女性、そしてそれを快楽として自慰を始める女性。ここでは精液は少量の希少価値の液体ーー生殖の記号、男性の快楽、性交の終焉の記号ーーではない。それは大量に女性に襲いかかる、まさに暴力的な男性そのものを象徴している。そして、ここに作用しているのは圧倒的な男性の側の力、それもほとんど終わりの無い力なのである。
 ポルノグラフィーにはさまざまな言説が含まれている(McNair 1996, pp.91-93)ことを認めたうえで、以上述べてきたことのの背後にある一般的な図式をあえて呈示しておきたい。快楽ー支配系言説にはつぎのような二項対立が認められる。

  男=快楽を与える身体 vs 女=快楽に身を任す身体

 性的快楽とはコントロールを失って、すなわち自己を喪失(エクスタシー)することで獲得されるとするなら、この図式はつぎの二項対立に置き換えることが可能だ。

男=コントロールする存在 vs 女=コントロールされる存在

 コントロールできる存在こそ「主体的」存在であり、他者を、そして世界を支配できるのである。この図式において射精は、主体性の放棄として隠蔽されなければならないのである。換言すればコントロールとはなによりも自由に射精の瞬間をマスターすることにほかならない。
 「彼女(彼女たちかな?)にインしてイツいかなる状況下でも、キミの完全なる意志のみがオチンチンに発射命令を下せる。これが絶倫男の条件なのだ。」(Hot Dog Press 編、一九八六、一四五頁)
 「(ポルノグラフィーの)焦点は彼のペニスに定められている。「男」としての彼の立場は自分の思うがままに性的に振る舞うこと、そして自由に射精できること、という能力によって意味づけられている。彼の地位や力を意味づけるのはこの(神秘的な)能力である。」(Ussher, 1997, p.164)
 男性にとっての性的快楽とはここで「支配する」ということと等価になる。
 これにたいして、排泄ー支配系言説はもっとストレートである。ここでも男性が主導権を握る。相手の女性は排泄物としての精液を受け止めるモノへと変容する。そして、モノ化こそ女性にとっての快楽とされる。
 それではこれら二つの言説には矛盾は存在しないのだろうか。男性が自らのセクシュアリティをコントロールするという快楽ー支配系言説は、同じセクシュアリティがきわめて自然なものである、だから射精を我慢できない、という排泄ー支配系言説と矛盾していないだろうか。そんな男性がどうして性交の最中女性をコントロールできるといえるのだろうか。勃起こそ男の無力さ(田崎、一九九三、五五−五六頁)の象徴ではないのか。だが、勃起不全(意に反して起たない)や早漏(意に反して終わってしまう)が問われることはあっても、意に反する勃起が問われることはない。そして、男性の我慢のなさが、「男らしい」価値ある行為ーーリードがうまい、積極的だ、頼りになるーーとして賞賛される。また、性交が始まると快楽に専念して急速に自制を失うのは女性である、という説明も可能だ。たしかに、そのようなプロセスこそポルノグラフィーが好んで取り上げる主題であった。しかし、矛盾とされない最大の理由は男性像が不問にされ、女性が排泄ー支配においても快楽を得るとされるということである。快楽ー支配系言説の激しく快楽を求める女性像と排泄ー支配系言説の恥辱を快楽とする女性像は重なるのである。

三 相互行為としての射精
 前二章では医学書やポルノグラフィーを参照しながら男性の性をめぐる言説を吟味してきた。快楽ー支配系言説では勃起が特権的な地位を占め、射精はほとんど語られていない。あるいは射精は描写されていても男性の快楽の体験として語られてはいない。それは男性のオーガズムではなく女性のオーガズムを誘発する要因である。排泄ー支配系言説での射精と精液は男性と女性とのより一方的な力関係を示唆するものにすぎない。
 しかし、性交はきわめて相互行為的(インタラクティヴ)な行為である。そこでははたして男性の快楽は隠蔽されているのだろうか。射精はどのように経験されているのだろうか。以下ではわたし自身が行った予備的な調査の結果を検討したい。これらは原則として私の周りにいる大学関係者へのアンケートによる調査であった。
 調査にあたっては回答者が男性(七名)と女性の場合(八名)、あるいはゲイ(一名)の場合などで設問を少し変更している。ここではゲイへのアンケート結果は考慮しない。調査のポイントは射精時にどのようなコミュニケーションがなされているのか、あるとすればそれが状況によって異なるのかである。ここでいう状況とは、膣内射精、自慰による射精(相手の眼前やテレフォンセックス)、フェラチオ、中絶性交(外出し)などである。
 回答者は女性八名の内一名が三〇代、七名が二〇代、男性は四〇代二名、三〇代一名、二〇代四名である。問われている男性数は回答者を含めると五〇代が二名、四〇代が三名、三〇代が三名、二〇代が九名の計一七名である。

◇射精の瞬間はあなたにとって快楽ですか。
 これにたいして女性八名が一〇名の男性について感じるのは四名、三名が感じない、三名が不明(無回答)であった。
◇膣内射精の時(コンドームの装着を含む)射精時に声をかけるか、合図をするか、なにもしないか。
 男性一七名中一一名が言葉や合図で射精を相手に知らせている。このうち、三名が「いってもいいか」という許しの問いである。他は一方的な通告か身振りである。
 同じ相手とのテレフォンセックスや相手の前での男性の自慰については経験のある九名の男性の内六名が相手の名前を呼んだり、「出しちゃう」「いく」という声をかけている。相手の手では、一四名中一三名が合図をするという高い確率になっている。「出そうだ」「いく」あるいは手で相手の動きを止めたりする。フェラチオも一四名の内一二名に合図がある。ここで注目したいのは、膣内射精でコミュニケーションをもたなかったカップルでも、相手の指やフェラチオでは声やジェスチャーで射精を知らすのが三名増えている。その反対はない。
 ここではこれ以上詳しい紹介は控えるが、この簡単な調査から明らかになるのは、射精は男性次第で、一方的に性交を終わらせることができ、またカップルの間にはなんらかのコミュニケーションが成立しているということである。そして、それは相手の手や口で行われる射精の場合さらに確実なものとなる。その理由を推察すると、これらの場合男性が完全に相手に身を任しているという事実に理由を求めることができる。相手のことを考えて射精を我慢する必要はないのである。したがって、そこで発せられる言葉もストレートなものになっていて、許しを乞うという形を取ってはいない。これに関して、『ハイト・リポート』で「あなたはフェラチオ、マスターベーション、性交で得たオーガズムのうち、どれが最良のものだと思いますか。」という設問への回答が興味深い。というのもそこでフェラチオと答えた理由として、相手のことを考えないで自分の快楽の充足に満足できる、という回答していた男性が数人いたからだ(一九八二 八六頁)。つまり、ここではまさに受け身の快楽がストレートに表現され、排泄ー支配系言説と快楽ー支配系言説とも異なる快楽の回路が示唆されているのである。

 一般に精液が問題となるのは、男性の生殖能力との関係においてである(北原、一九九九)。「種なし」とは今日でもなお男性を侮蔑する言葉である。それは(類的存在としての)真の男に値しない、ということを意味する。
一 本章では「超男性的」男優が演じるポルノグラフィーが一般男性にもたらす不安について議論する余裕がなかった。なお、以下では勃起を快楽ー支配系言説の中心概念として分析しているが、陽根が快楽ではなく痛みを与える器官になる場合もあるゆえ、排泄ー支配系言説と矛盾するものではないことをことわっておきたい。
二 マックリントックは、カム・ショットが基本的に自慰であるゆえ、女性とのセックスの放棄を意味する、したがってファロスによる女性の支配、同時的な快感の増大、というポルノの言説に矛盾すると述べている(McClintock,1992 p.123)。しかし、この矛盾はカム・ショットが転移によって女性になお快楽を与えている、とするなら解決することになる。
三 ここで思い出されるのはハロルド・ロビンズの小説『グッバイ・ジャネット』のつぎのような場面だ。ジャネットの母は巨大なペニスをもつ新しい男を誘惑するのだが、彼女を待ち受けていたのは、ホモ・セクシュアルを公言する彼からの放尿であった。ここで射精は放尿に転換し、ペニスは喜びではなく屈辱を与える道具となる。だが、通常のセックスにおいても精液を受け取ることが屈辱(暴力)ではないという保証はどこにもない。この点については沼崎(一九九七)が参考になる。またポルノ・ビデオのいわゆる「中だし」(膣内射精)シリーズもまた、膣内射精こそ女性にオーガズムを誘発するという主張に留まらず、排泄ー支配系言説の例として解釈することも可能である。
四 射精が男性のオーガズムと同義ではない、それをこえてよりよい快楽を得ることが可能である。この点についてはChia and Arava (1996)とミード(一九九五)を参照。小田も男性の能動性と密接に関係する性器中心の快楽にたいして、受動的で全身的な快楽を対峙させている(一九九六、九二ー九六頁)。

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