出来事と死者をめぐる記憶―雪中行軍遭難事件:1902〜2002―

 明治35年1月末に起こり、199人の死者を出した八甲田山雪中行軍遭難事件。その死者は、職務中の死であるにもかかわらず、陸軍によって「戦死」に準じた死として意義付けられて語られた。同年7月23日に催された吊魂祭においても祭主となった第八師団長立見尚文中将は祭文の中で「君国ノ為メニ其身ヲ致ス。何ソ戦時ト平時トヲ問ハン」と述べ、戦死者と変わらず、風雪の中でも軍紀をよく守った軍人の鑑として讃えた。
 ところで、遭難事件の報告書として第五聯隊が出版した『遭難始末』があるのだが、その奥付を見ると明治35年7月23日に発行されている。吊魂祭の開催日と同じなのは、もちろん、意図的に揃えたからだろう。その後においても「7月23日」は特別な意味を持つ日になり、陸軍墓地への埋葬式も翌明治36年のこの日に行われている。さらには、陸軍大臣寺内正毅の碑文が入った遭難記念碑の除幕式があったのも明治39年のこの日である。この遭難記念碑こそが陸軍による遭難事件の総括を永遠に語り伝え、すべてが終結したことを宣言するモニュメントなのだが、逆に言えば、それ以外の語りを封じるモニュメントでもある。
 だが実際には、庶民の間には陸軍とは異なる、時には対抗する遭難事件をめぐる語りが伏流し続けていた。したがって、この意味で遭難事件はいまだ終わっていない。これらの語りと、陸軍による語りとの間に生ずる記憶のコンフリクトを問題化することが、今回の発表のテーマである。