第5回[戦死者のゆくえ]研究会

   埋葬の日は、言葉もなく
   立会う者もなかった、
   憤激も、悲哀も、不平の柔弱な椅子もなかった。
   空にむかって眼をあげ
   きみはただ重たい靴のなかに足をつっこんで静かに横たわったのだ。
   「さようなら、太陽も海も信ずるに足りない」
   Mよ、地下に眠るMよ、
   そみの胸の傷口は今でも痛むか。  (鮎川信夫「死んだ男」)
今年の靖国神社は喧騒をきわめた。8月13日の小泉首相の靖国参拝。そして、15日の靖国神社の境内。“賛成派”“反対派”、あるいは批判者、見物人、どうでもいい人、マスコミの人たち、などなど。小泉効果というべきか、これほど靖国神社が注目された時はなかったのではなかろうか。しかし、靖国神社をめぐって、どのようなことが語られているのか、つまらないかもしれないが、今一度、あらためて見直してみる必要があると思われる。世間で焦点となっている事柄のひとつとして、国立の戦没者追悼(祈念)施設の建設があげられている。政府の一部、幾人かの識者が主張し、マスコミがとりあげている。これとて実現されても、第2の靖国にすぎないだろう。
さて[戦死者のゆくえ]研究会は5回目を迎える。“日本人”という一極集中的な靖国神社議論に対して、いわば多極的な“戦死者”論を構想してみたい。植民地下の挑戦で宗教や神話がどのような経路をたどっていったのか、沖縄において“沖縄戦の記憶”が本土出身のヤマト嫁を媒介にしてどのように喚起され語られるのか、そして戦中に“戦死者”がマスメディアによって国内向けにどのように語られていたのか、報告者のテーマは多岐にわたるが、戦争や“戦死者”、植民地の歴史を議論し表現していくための問題提起となるだろう。この研究会は大阪大学〔日本学研究会〕も兼ねているが、もとより多くの人びとに開かれている。[戦死者のゆくえ]研究会への参集を皆さんに呼びかけたい。

○日時:10月5日(金曜日) 13:30〜17:00
<会場>大阪大学(豊中キャンパス)待兼山会館2階会議室
□第一部 報告
<報告者>
全成坤(大阪大学大学院)
   「植民地期朝鮮における宗教政策と『檀君』思想をめぐって」
石附馨(大阪大学大学院)
   「ヤマト嫁の語りにみる“沖縄戦の記憶”」
矢野敬一(静岡大学)
   「『戦死者』についての語りと『軍国の父』」

□第二部第 討議
<討議者>
菅浩二(国学院大学大学院)
真鍋昌賢(国際日本文化センター)
司会:川村邦光(大阪大学)

※発表要旨

全成坤(大阪大学大学院)「植民地期朝鮮における宗教政策と『檀君』思想をめぐって」
植民地期朝鮮における宗教政策、とりわけ神社普及政策は、日本帝国主義膨張と連動して、単純な民間信仰のレベルを超え、日本帝国主義のナショナリズムを支える役割を果たした。その植民地期朝鮮で「同化政策」の尖兵としては「学校教育」と「神道」が中心におかれた。「国史」教科書のなかでは「国魂信仰」教育、そして「海外神社」造営を用いて、いわゆる「皇民化政策」が唱えられたのである。
しかし、実際には「日本民族」と「朝鮮民族」の間には差別の構造が作り出された。さらに「朝鮮神宮」をヒエラルキーとして唱えられた「一視同仁」「内鮮一体」の帰結は、朝鮮民衆側を分断する結果にいたった。被支配民族側の排日・抗日という思想が頭を擡げ、それによって形成された「檀君」思想はたやすく歴史化していったのである。それにもかかわらず、それは結果的に総督府の「皇民化」を手助けする結果ともなった。このように植民地期の「同化政策」は民族の分裂をもたらし、民族の基盤が弱いときに「民族思想」形成をなしてしまう結果となったのである。それは今日にも尾を引いていて、その検討はまだ終わっていないと考えられ、植民地期において、どのような要因によって、どのように変化していったのかについて考察を試みたい。

石附馨(大阪大学大学院)「ヤマト嫁の語りにみる“沖縄戦の記憶”」
「今でも結局、最後には、私たちは加害者のヤマトって言われてしまうのよ」。これは、あるヤマト嫁の言葉である。2000年の夏、私は沖縄県豊見城村において50歳代の“ヤマト嫁”と呼ばれる女性たちから、その沖縄での生の軌跡をうかがった。そして、修士論文では、彼女たちがどのように沖縄を経験し、何を“沖縄”だと認識したのか、またいついかなる場面で自らを“ヤマト”と意識するのかを考察した。
ヤマト嫁とは、沖縄に居住する沖縄県外の日本本土(=ヤマト)出身で沖縄出身の男性と結婚した女性、すなわち嫁を意味する。たまたま沖縄の男性と出会い、結婚し、夫の郷里・沖縄で、妻・母そして嫁として生活する。しかし、彼女たちの日々の生活には、しばしば“沖縄戦”そしてその記憶が影を落としている。
今回、私は“沖縄戦の記憶”が日常生活の場面において“ヤマト嫁”と名づけられる存在を媒介にし、どのような形で喚起され表現されるのか、ヤマト嫁の生活誌をもとに報告したい。

矢野敬一(静岡大学)「『戦死者』についての語りと『軍国の父』」
近代における「戦死」という死のあり方は、国家間の戦争という事態によって祥二、かつ一定の基準によって規定・顕彰されるという点で社会的なものである。満州事変以後、大規模な戦闘にともなって生じた戦死者をどのように社会的に処遇するのか、そのコンセンサスは日露戦争以後の時間の経過にともなって希薄化していったのが当時の実状だった。そのコンセンサスを作り出すことが満州事変以降の課題となった。
これまでの研究史では「母性愛」と戦時体制との関連が強調され、「母性愛」を奉仕と犠牲の精神に転化させることによって、挙国一致への心理的基盤を補強したとされる(鹿野政直『戦前・「家」の思想』等)。だが新聞記事上の戦死者報道では、戦死者の父親との関連において記事が構成されていたことに注目したい。「軍国の父」が、戦死者を語る上での一つの焦点となっているのだ。
今回の発表では発表者のフィールドである新潟県の地方新聞『新潟新聞』を対象として、満州事変以後、「戦死者」が「軍国の父」とどのように関連づけられて語られているのか、「戦死者」に対する弔辞の言説とあわせて問題とし、発表したい。