妖術と邪術
田中雅一
1 はじめに
本稿では、古くて新しい人類学のテーマである妖術witchcraftと邪術sorceryについての議論を再考する。その際、参考としたいのは、ジュディス・バトラーが『ジェンダー・トラブル』で展開しているジェンダー・アイデンティティの構築性をめぐる議論である。本稿では、妖術師とは、ジェンダーと同じく、構築的に生みだされるものという点を指摘したうえで、それが、すくなくともアザンデ社会においては、平民のアイデンティティ構築と密接に関係していることを明らかに、従来の妖術・邪術論とは異なる視点を呈示したい。
2 パフォーマティヴィティ・呼びかけ・エイジェント
バトラーが、ジェンダーの構築的性格を明らかにするために採用したのがJ・L・オースティンが提唱した人を動かすための行為遂行的発言、すなわちパフォーマティヴィティという概念であった。彼女は『ジェンダー・トラブル』でジェンダー・アイデンティティは「ジェンダーの首尾一貫性を求める規制的な実践によってパフォーマティヴに生みだされ、強要される」[バトラー 一九九九、五七頁]と主張する。したがって、ジェンダー・アイデンティティにある種の実体を認めることは誤りなのだ。すこし長いが彼女の主張がはっきりしている文章を引用したい。
ジェンダーは、ひそかに時をつうじて構築され、様式的な反復行為によって外的空間に設定されるアイデンティティなのである。ジェンダーの効果は、身体の様式化をつうじて生産され、したがってそれは、身体の身ぶりや動作や多様なスタイルが、永続的なジェンダー化された自己という錯覚をつくりあげていくときの、日常的な方法と考えなければならない。この考え方は、ジェンダー概念を、実体的なアイデンティティ・モデルの基盤から引き離し、ジェンダーをその時々の社会の構築物とみなす基盤へと、移行させるものである[バトラー 一九九九,二四七頁、著者による強調]。
バトラーは、ジェンダーという、一見身体の生物学的な差異に本質的に根ざした属性が、実は日常的な言語行為を通じて構築されることを繰り返し強調する。言語行為論に由来するパフォーマティヴィティという概念は、ここでたんなる相互行為で生じる中立的な発話の行為的側面以上のものを意味する。なぜならパフォーマティヴィティはジェンダーを核とするアイデンティティそのものを生み出し、その背後に(言語行為論が前提とするような、一般的な意味での)主体性を認めることはできない、と彼女は断言しているからだ。そして、その実践は強制的でもある。パフォーマティヴィティを通じて、ひとびとは特定のジェンダーにふりわけられる。このように新たに読み替えられたパフォーマティヴィティの視点からアルチュセールの呼びかけをバトラーが「発見する」のは時間の問題であった。一九九三年に公刊された『身体が問題だ』で彼女はつぎのように書いている。
発話し、語り、そのことによって言説に結果を生み出す「私」があるところには、まずその「私」に先行する言説、その「私」を可能にする言説があり、その意志を制限する軌道を言語によって作る言説がある。したがって、言説の後ろに立って自らの意志や意欲を言説を通して実行するような「私」などは存在しない。反対に、「私」は呼ばれ、名付けられ、アルチュセールの用語で言えば呼びかけを通してのみ存在するようになり、この言説上の構成とは「私」に先立って存在し、それは私の他動詞的な呼び出しなのである[バトラー 一九九七、一六一頁]。
この文章でもって、オースティン(あるいはウィトゲンシュタイン)以来の言語哲学の流れと、アルチュセールにはじまる社会理論・権力論との接合が企てられたといってよかろう。オースティンが言語の遂行性と名付けた性格こそ、日々の呼びかけであり、われわれを主体化する「行為」だということが明言されたのである。
バトラーはアルチュセールと異なり、パフォーマティヴィティあるいは呼びかけが「従属する主体」を一律に生み出すとは考えてはいなかった。『権力の心的生活』(一九九七)と『触発する言葉』(一九九七)におけるバトラーの基本的な主張を一言で述べれば、アルチュセールの呼びかけを通じて、従属する主体が形成されない、ということである。なぜ、そうなのか。彼女によれば、呼びかけを通じて生まれるのはもう一つの従属する安定した主体などではなく、不安定でありながら同時に語りかける力をもつエイジェント(行為媒体者)なのだ。パフォーマティヴィティはつねに、必然的に失敗し、エイジェントを生み出す条件を準備するというのである。理論的には彼女の議論は正しいかもしれない。しかし、エイジェントが真に力を持つのは、理論だけでは不十分である。筆者には、エイジェントが確立するためには以下のようなネットワーク形成が不可欠であると考えたい。それがないかぎり、呼びかけは主体化にほぼ成功するのである。
エイジェントはしばしば代理人と訳される(開発業者、旅行代理人、スパイなど)。代理するのはコミュニケーションのネットワーク(共同性)が生みだす場であり、エイジェンシーは広い意味で変革を可能とするコミュニケーション能力である。代理とは、他者の操り人形という意味ではなく、他者との共同関係を示唆する。私の存在が他者との関係に埋め込まれているのである。だがわたしはその関係の言いなりになっているのではない。エイジェントはネットワークの存在を示唆し、またそのような場を生み出し、さらに変化させる実践者である。同時にエイジェント自体も変化していく。したがって、エイジェントは、しばしば想定されるような、構造に対立するような個人の別の名前ではない。逆説的ではあるが、エイジェントに着目する個人からの視点・個人への視点とは、あらたな共同性(ネットワーク)の発見をめざす立場なのである。
3 古典的妖術・邪術論
妖術や邪術などの超自然的な力をめぐる一連の実践は、人類学の古典的テーマであった。これらを近代人類学の文脈ではじめてテーマにしたのは『アザンデ人たちの妖術・託宣・呪術』を一九三七年に公刊したE・E・エヴァンズ=プリチャードであった。そこでかれは中央アフリカに住むアザンデ人たちの妖術を中心とする宗教実践を詳述する。そして、かれは、そこに二つの異なる宗教実践を認める。ひとつは妖術で、これは自覚なしに引き起こされる神秘的な力である。その力は内蔵に宿っていて遺伝する、生得的なものだ。嫉妬などを感じると、この神秘的な力が活性し、相手に危害を与える。病気などの不幸に苦しむことが多いと、妖術をかけられたのではないか、と疑い、託宣などで妖術師を同定する。過去には妖術師を殺害することもあった。これにたいし、エヴァンズ=プリチャードは、自覚的になんらかの手続きを通じてひとびとに危害を与える行為を邪術と呼ぶ。すなわち、邪術は悪意をもって呪薬を使って行う宗教実践であり、邪術師は妖術師と異なり確信犯である。
本書の主要なテーマは、なぜ妖術が信じられているのか、という問いである。それにたいしエヴァンズ=プリチャードは二つの異なる答えが用意している。ひとつは心理に関わるもので、妖術は偶然を排することで、ひとびとに説得力のある説明原理を呈示している、ということである。なぜわたしがひどい病気になったのか。あるいは事故にあったのか。その答えは病原菌や不注意にではなく――それは直接の原因かもしれないが、なぜわたしなのかという問いには答えない――、妖術に言及することよって真に意味あるものとなる。
もうひとつは、妖術の社会学的な機能に関わる。すなわち、妖術師の疑いを避けるためにひとびとは妬みなどの悪感情を公然と示すことを避け、社会秩序や規範に従順に生きることにつねに配慮することになる。また、妖術にかかることを恐れ、ひとびとは嫉妬などの対象とならないように気をつける。こうして妖術は社会の秩序維持に役立っているのである。
エヴァンズ=プリチャードの議論は、アフリカだけでなく、東南アジアやオセアニアなどでも吟味されることになる 。そこで議論の対象となったのは、妖術と邪術という対比がアザンデ人以外でも妥当かどうか、という問題であった。妖術と邪術という他者に危害を加えるふたつの宗教実践については、通文化的な比較や、妖術師、被害者あるいは告発者らの社会関係との関連で述べられてきた
。本稿では、もういちどアザンデ社会の文脈にもどって考えてみたい。
まず注目したいのは、邪術を実践するのが貴族たちであって、平民ではないということである。
力のある王でさえも邪術をおそれる。いや王は誰よりも邪術を恐れている。王子は平民の妖術師によって殺されることは考えない。彼の敵は他の貴族であり、貴族同士では、妖術は用いないのだと言われている。しかし、邪術を用いて殺すことはあり、彼らは邪術を使用したと言って煩雑に互いを非難する[エヴァンズ=プリチャード 二〇〇一、四五五頁]。
王子や貴族は妖術を実践しない。この意味で、妖術は平民に特徴的な宗教的特性といえる。つまり、アザンデ人たちの社会は、宗教実践という観点から考えれば、邪術師たちと妖術師たちからなっている、と言えよう。そして、後者は前者に対して無力なのだ。
もういちど、妖術の定義に戻ると、それは、遺伝的で、嫉妬が妖術を作動させ、みずからは気づかない。つまり、平民たちは、自身の悪い感情をコントロールできないし、また悪い遺伝的要素をコントロールできない存在ということになる。遺伝ということに注目すれば、内婚する平民はみな潜在的に妖術師である、ということになる。しかし、その力は、階級的差から当然生じる嫉妬にもかかわらず、貴族たちには危害をおよぼすことはない。
以上が、簡単ではあるがアザンデ人の民族誌から理解できることがらである。妖術と邪術という他者に危害を加えるふたつの宗教実践については、すでに指摘したように通文化的な分類の妥当性を問うか、やはり比較に基づく機能主義的な議論に終わっていた。しかし、それだけではアザンデ社会の宗教実践の意味を把握しそこなっているのではなかろうか。以下、あらたな考察を試みたい。
4 再考
バトラーは、ジェンダー・アイデンティティは、日々のジェンダーをめぐるパフォーマティヴ(遂行的)な実践を通じて生みだされると述べ、ジェンダー・アイデンティティが本来的にわれわれの身体に備わっているものではないと指摘した。同じ言い方をすれば、平民たちは妖術実践を通じて妖術師となる、と言えよう。そして妖術が平民の特徴だということを考慮すれば、妖術実践を通じて平民が生まれる、とも言い換えられる。もちろん妖術だけが平民を平民たらしめる実践ではない。しかし、それは自覚的ではなく、つねに告発という形でしか生まれない、すなわち他者からの呼びかけを通じてしか生まれないという点で、きわめて特異なものだということをここで指摘しておきたい。
「平民は妖術師である」という言明、あるいはより具体的には「あなたは妖術師だ」という呼びかけ(主体化)を攪乱することは可能だろうか。そのようなパフォーマティヴィティはエヴァンズ=プリチャードのテキストには見えてこない。かれが繰り返し主張する妖術信仰批判の難しさは、言ってみれば、平民側の、告発に抵抗するエイジェント形成の困難さを意味する。
特定の事例に誤謬が認められても、それは信仰全体に影響を与えない。その理由のひとつは、たとえ疑問を抱いたとしても――疑問を抱くのは当然のことながら妖術師として告発される妖術師本人であろう――、そのようなアザンデ人に共同性(ネットワーク)を形成する場が、与えられていないからである。本来もっとも利用価値のあるネットワークであるはずの親族組織はここでは、その遺伝的な特徴から無力である。親族が妖術で告発されたからといって、彼あるいは彼女を擁護すれば、自分が疑われることになる。もうひとつの理由は、妖術が、無自覚であるうえ、最終的には身体的根拠をもつ、ことであろう。ここでは無自覚ということが妖術師として告発された人物の抵抗を抑えている。身に覚えのない、という反論は成立しないのだ。そして、妖術の身体的根拠は目に見えるのではない。それは解剖という手続きをとって初めてわれわれにその存在が知らされる。
貴族は邪術を行う。しかし、妖術信仰が平民のアイデンティティ形成に深く関わるほどに、貴族はいわば邪術師として主体化されるのではない。邪術は、意図的であるという点で「主体性」が問われる相互交渉の領域に当事者を引き込むことになる。妖術と異なり、邪術は身に覚えがないといって抵抗できる種類の実践なのだ。またそれは身体・感情の領域と言うより、知識――たとえば薬草の――に関わる。つまり、邪術を実践する貴族たちは、まさにその実践を通じて責任能力のある存在(エイジェント)であることを証明していると言えよう。ところが、平民は妖術実践という実践そのものによって「主体性」は否定されているのである。平民たちは、邪術に比べて効力の弱い妖術の実践者であると同時に、自らの意志でコントロールできないという二重の意味で貴族にたいし劣位におかれている。その意味で、妖術と邪術という宗教実践が、王子・貴族の平民に対する優位性を(悪の領域で)保証しているのである。
5 おわりに
本稿では、妖術と邪術という古典的なテーマを取りあげ、代表的な構築主義の議論を援用しながら、妖術と平民アイデンティティとの密接な関係について考察した。言うまでもなく、これは貴族と平民との間に宗教実践の相違が認められるアザンデ社会にのみ当てはまる議論である。しかし、アザンデ社会のみが階層社会だというわけではない。妖術という宗教実践が、劣位にあるひとびとの(劣位な)主体形成にきわめて有効な実践である、という視点は十分に有効なものと考えたい。劣位にある存在の典型は言うまでもなく女性である。「ウィッチWitch!」という告発は「ビッチBitch!」という罵声と重なりつつ、「女」を立ちあがらせる。とすれば、妖術をめぐる議論はわれわれが予想しているよりはるかに広い意味をもつことになろう。
参考文献
エヴァンズ=プリチャード、エドワード・E 二〇〇一『アザンデ人の世界――妖術・託宣・呪術』向井元子訳、みすず書房。
大塚和夫 一九七六「ウィッチクラフトとソーサリー――弁別に関する覚書」『社会学年報』二巻、一〇五−一二八。
バトラー、ジュディズ 一九九九(1990)『ジェンダー・トラブル――フェミニズムとアイデンティティの攪乱』竹村和子訳、
青土社。
―――― 一九九七「批評的にクイア」クレア・マリィ訳、『現代思想 臨時増刊 レズビアン/ゲイ・スタディーズ』
一九九七年五月号、一五九−一七七頁。
田中雅一 二〇〇二「主体からエイジェントのコミュニティへ――日常的実践への視角」
田辺繁治・松田素二編『日常的実践のエスノグラフィ』世界思想社、三三七−三六〇頁。
Middleton, John and E.H. Winter (eds.) 1963.
Witchcraft and Sorcery in East Africa.
London: Routledge and Kegan Paul.
Stephen, Michele (ed.) 1987. Sorcerer and Witch in Melanesia.
Rutgers University
Press.
Watson, C.W. and Roy Ellen (eds.) 1993 Understanding Witchcraft
and Sorcery in
Southeast Asia. Honolulu: University of Hawaii Press.