江戸の科学文化
・近世科学書データベース構想
江戸時代には、中国科学を大いに受容し、それをさらに発展させた独自の科学文化を確立させた、というストーリーに異論を唱える者はいないだろう。しかし、そこでいう「中国科学」とはどのようなものであるかについては、きわめて不明瞭である。
江戸時代は明代末期から清代に相当するが、その当時の中国では、海を渡ってやって来たイエズス会宣教師達が布教の手段として西洋科学文化の啓蒙活動を活発に行っていた。宣教師の中には日本にも渡来し、迫害を被りつつ学問を教授して大きな影響を与えた人物も何人か出た。しかも、それは江戸になる五〇年も前からのことである。近世当初から西学東漸による新しい学問がすでに夜明けを迎えていたのである。
しかしながら、キリシタン弾圧から鎖国への道を選んだ日本は、中国経由の西洋の情報を自ら遮断してしまい、すぐに近代への階梯は上らない。むしろ逆に朱子学を国学に採用し、中国近世の儒学思想を幕藩体制の確立、維持に応用しようとした。もっとも朱子学一辺倒というわけではない。朱子学を学んだ儒者はさらに陽明学等の明代の思想にも手を染め、朱子学を批判的に発展させた思想家の著作も多数舶載された。
当時の中国では、イエズス会宣教師の西学に刺激を受けて、朱子学、陽明学を中心とする宋明理学の思弁的な言説が多くの虚妄を生み出していることに気づき、実証的な方法論によって学問を探究しようとする明末清初の転換期にあった。そうした清朝考証学の先駆的著作も刊行してすぐに海を渡ってもたらされるという状況にあった。
つまり、日本での中国近世文化の受容は、宋から明末清初の500年の時差を短縮する形で、朱子学、陽明学から明代後期、清初の著作を同時進行的に学び、摂取しようとした。それが、江戸の学術空間に特有のパラダイムを生み出す原動力なのであるが、中国近世との学問的な相関関係を複雑なものにしている要因でもある。
自然科学の分野に限っても、きわめて多面的な様相を呈する。その具体的な考察にあたって、冒頭に述べたように中国科学自体があまり明瞭でないのは、受容の過程が儒学ほどはっきりしていないことに加えて、明清期の科学史研究が立ち遅れていることも確かである。とりわけ、宋元の科学的成果に比して、明代は「停滞期」と見なされる傾向にあり、またイエズス会宣教師がヨーロッパ科学を導入した後の清代に至っては、中国伝統科学の流れのなかで、どのように位置づけを行うべきかの指針も見出せないでいる。近代的な視点から見て評価すべき業績が乏しい反面、人々の生活に深く浸透し、文化的な広がりを持ったために、焦点が定まらずに、研究の切り口を探しあぐねているのである。
したがって、江戸の科学文化を築いた人々が明清期に流布した書物からどのような情報を学んだのかについて考究することは、日本近世に自立した独自の科学文化の特色を明らかにするだけではない。その影響を与えた中国近世の科学文化が、どのような可能性あるいは限界性を保有していたのかを考察する有益な手がかりが得られるにちがいない。その考察結果を情報源となった中国に逆照射すれば、学問的な中心がどこに位置し、どのような理論構造の特質をもっていたのかを吟味することができ、日中両国の科学文化を相対化して理解できるのではないだろうか。
そうした視座において、日中両国の科学文化の比較を行っていくには、両者に共通する情報の統合的な整理を目的とした近世科学書データベースの構築が欠かせないだろう。日本にもたらされた中国書には、江戸に限らず、中国ではすでに佚亡してしまったものが数多くある。それらに対して、日本人学者がすぐれた注釈書を著している例も少なくない。そうした日本残存資料や邦人の注釈書は、多くの研究者によってかなり整理されてはいるが、残念ながら中国や台湾で推進している四庫全書、四部叢刊等のデータベース化事業の対象には入ってこないだろうから、多種多様な和刻本も含めた電子テキスト化を独自で行わないわけにはいかない。
そこで、筆者は、江戸の科学文化を創出するうえで大きな貢献を果たした著作とその情報源となったと思われる中国科学書を相互比較しながら、データベース化する試みに着手し始めた。
それらの作業は、緻密なテキスト校勘の作業が伴うために遅々として進まないが、研究資料としての有用性を鑑みて、不完全であってもできるだけ早期にWeb上でホームページ公開し、利用者からのフィードバックでよりすぐれたデータベースに仕上げていく方式を取りたいと考えている。
実際に日中両国の科学書を内容的に比較しようとすると、テキストデータだけではなく、もう少し分析的な情報を付加させ、注釈として書き込んだマークアップ型のデータベースがのぞましいと思われてくる。また、各書間の情報を相互にどのように整理してリンクさせるかも、知恵を出して工夫する必要があることを痛感する。
コンピュータの検索機能を使えば、手作業で行っていた時代と比べて、きわめて迅速にある程度の情報は絞り出せるが、用例が数多くなる重要事項ほど、大量のデータになって処理しきれなかったり、語句検索が無意味であることがしばしばである。つまり、全体的な鳥瞰図とデータベースのフォーマットを措定するうえでは、データベースの情報群をどのように処理し、何を分析したいのかを明確にする必要がある。
そこで、和算や東洋医学の形成に関する情報源の考察を同時に行い、近世科学書データkベース構想に益する指針を素描してみたいと考えている。