東アジア天文暦算研究会

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故・藪内清先生の業績と略歴*

   宮島一彦**

  昨2000年6月2日1時56分,本会創立時からの会員で,中国科学技術史研究に偉大な業績を残した藪内清先生が94歳の長寿を全うされた.京都・聖徳寺での葬儀は出来るだけ内輪でとの意向で,御遺族以外には少数の弟子が参列しただけだった.マスコミへは京都大学人文科学研究所から6日に知らされ,同日夕方のNHK ニュースや新聞各紙の夕刊で報じられた.また,23日には京大会館で「藪内清先生を偲ぶ会」が催された.
  先生は1906年2月神戸市に生まれ,1926年に旧制大阪高等学校を卒業した.同年,京都帝国大学理学部宇宙物理学科に入学,29年に卒業して理学部副手となった.同年設立された東方文化学院京都研究所に35年から属託として勤務.同研究所は,38年より東方文化研究所,48年からは京都大学付属人文科学研究所東方部となったが,49年から同研究所の教授となり,67年から2年間,研究所長を務めた.69年京都大学を定年退官し,同名誉教授・龍谷大学教授となる.69年度朝日文化賞,70年に紫綬褒章,73年にジョージ・サートン賞を受賞,76年には勲二等瑞宝章を授与された.74年から90年まで京都市教育委員を務め,83年に日本学士院会員となった.
  国際学会や調査で何回か海外出張しておられる.初の中国訪問は1937年に能田忠亮・吉川幸治郎・森鹿三との4名で出発すべく,上海の新城新蔵に頼んでビザを入手していたが,予定の7月に当時言うところの日支事変が起こって中止され,翌年実現した.当時の貴重なフィルムが残っている.次の訪中は1982年の第3次日本科学史学術訪中団であった.第1,2次も団長に予定されていたが,事情で行けなかった.
  宇宙物理学科に進んだきっかけの1つは山本一清『星座の親しみ』を読んだことだというが,同学科では山本のほか,同学科の創設者で天体物理学及び中国天文学史の日本における草分けとも言える新城(京都大学総長や上海自然科学研究所所長を歴任,1938年南京で死去)や百済教猷の教えを受けた.百済の講義の克明なノートが残っている.この2人の講義を聴いたことや,当時,京都で内藤虎次郎(湖南)・狩野直喜(君山)らの中国学の大家が多く活躍していたことが,先生を中国天文学の研究に向かわせたと思われるが,先生自身は「人生は物理実験のようなものだ…失敗すれば改めて出直せばよい.…私が中国の天文学や科学の歴史を専攻するようになったのも,…失敗の結果と言えるであろう」と書いておられる.宇宙物理学科の先輩能田の世話により東方文化学院京都研究所員となった時から,本格的に中国天文学史に取り組むようになった.
  研究所で始めに与えられたテーマは,蘇州の石刻天文図の分析,およびそれと関係する宋代の恒星観測記録から中国星座を同定する試み(この時の詳細な計算ノートが残っている)や,『石氏星経』星表の観測年代の研究であった.後者においては,BC360年頃とAD200年頃の2群に分かれるという上田穣の結論に対し,一見そう見えるのは観測器(渾天儀)の設置誤差などに由来する系統的観測誤差が原因で,AD70年頃という1つの年代で説明しうることを示すとともに,『石氏星経』星表に示された黄道内外度がインド天文学で用いられた極黄緯と同じものであることを明らかにされた.
  新城・能田時代の中国天文学史研究は,歴史学の補助としての天文年代学や,現代天文学の興味の対象を過去にも持ち込んだ宇宙構造論の学説史などが,主な対象であった.例えば新城の「春秋長歴」「歳星の記事によりて左伝国語の製作年代と干支記年法の発達とを論ず」,能田の「周髀算経の研究」「漢代論天攷」「礼記月令天文攷」などで,暦法研究もその延長上にあった.先生は中国天文学史を独立した学問として自立させ,学説史だけでなく,「科学の社会史」や「科学の思想史」の観点から論じる地平を切り拓かれた.
  東方文化学院京都研究所では個人研究と並んで共同研究の義務が設けられ,京大人文研にも継承された.天文暦算研究室の共同研究メンバーは能田・藪内の2人だけで,その成果が共著『漢書律暦志の研究』(全国書房,1947.復刻版・臨川書店,1979)となった.学位主論文『隋唐暦法史の研究』(三省堂,1944.増訂版・臨川書店,1989)では,隋唐の暦法の成立経緯・日躔月離計算・日月食予報・九執暦が扱われ,「殷周より隋にいたる支那暦法史」が付録されている.「歩日躔月離考」では大衍暦において用いられた不等間隔の補間法が,ガウスの補間公式の3差以上を無視したものに一致することなどを明らかにした.九執暦はインド天文学を伝えるものであり,その理解のためと前述の『石氏星経』星表の天球座標の問題もあって,先生の関心はインド天文学に及び,更にそれがもっと西方の天文学の影響を受けたものであることから,プトレマイオス『アルマゲスト』の邦訳(恒星社厚生閣,上1949,下1958,合冊再版1982)にまで発展した.
  内外の多くの恩師や先輩・親友の中でも,能田(1901〜89)より2ヵ月ほど早生まれのケンブリッジのニーダム(1900〜95)に特別な敬意を払っておられた.よく中国科学技術史について「東に藪内,西にニーダムあり」と言われたが,ニーダムのブルドーザーのような研究活動とは対照的に,先生の研究は精緻という言葉が似つかわしい少数精鋭の密度の濃いもので,互いに学風は異なるけれど,その偉大さを認めあっていた.
  しかし,ニーダムは「編暦の全歴史は,調和できないものを調和させようとする果てしない試みの歴史であり,…科学的な興味に乏しい」と『中国の科学と文明』(邦訳第5巻,思索社,1976)に書いた.これに対し,その暦法こそ中国天文学の本質であり,政治イデオロギーと結びついて重要な意味をもつことを,先生は明らかにされたのである.このことは既に『隋唐暦法史の研究』において指摘されているが,扱いを清朝まで伸ばし,更にいくつかのトピックスを盛り込んだ代表作『中国の天文暦法』(平凡社,1969.増補改訂版,1990)において,更に鮮明に示されている.同じ題で,1979年の宮中講書始めの儀で御進講された.
  先生は「岩波新書『中国の科学文明』(1970)はニーダム氏の大著の表題を借りたものであるが,…中国の隣国に位置し長くその影響を受けてきた日本に生まれたものにとって,ニーダム氏に先きを越されたという思いはいつも頭を去らない」と書いておられる.ニーダムの大著とはもちろん『中国の科学と文明』のことで,「多くの協同研究者の業績を凝集した」(混合して1つにまとめあげた)ものであるが,先生も研究所において中国科学技術史一般の共同研究班を組織し,ニーダムとは違ったスタイルの共同研究を展開された.「1つのテーマを中心に書かれた研究者の論文を集録し,強力な体系づけは行わない」(それぞれの論文の独立性を保つ)やり方で,『中国中世科学技術史の研究』『宋元時代の科学技術史』『明清時代の科学技術史』などの単行本論文集を編集された.『明清…』は吉田光邦が共同編集者となっている.この3書でカバーされていない漢代とそれ以前については単独で『中国文明の形成』(岩波書店,1974)を著わした.ニーダムが分野別に記述した中国科学技術史を,断代史形式で(その中では複数の執筆者により分野別に)記述したわけである.
  これらの業績や先に引用した言葉からも,中国科学技術史全般に対する先生の愛情が伺えるが,1979年4〜9月の教育テレビ「NHK 大学講座」では,やはり天文学史の話の時が一番楽しげだった.この時のテキスト『中国科学技術史』は後に「新出土資料と科学史」が追加されて『科学史からみた中国文明』(日本放送出版協会,1982)となった.短い論文は以後も書いておられるが,書き下ろしの本格的著書はこれと中公新書『歴史はいつ始まったか−年代学入門』(1980)が最後といえる.以前書いた著書を次々に改訂増補して,それまでの仕事の整理へと向かわれた.
  研究所が京都大学人文科学研究所となり,「天文暦算研究室」が「科学史部門」となってからの先生の最初の共同研究テーマは「中国技術史(中国古代科学技術史)」で,まず『天工開物』が取り上げられ,成果は『天工開物の研究』(恒星社厚生閣,1953)・『天工開物』(平凡社,1969)となった.53年に文部省から研究所に「近畿における前近代産業の総合調査」の依頼があり,先生が責任者となったことから,研究の対象は日本の科学技術史にまで広がった.『立杭窯の研究』(恒星社厚生閣,1954)・『西陣の機屋』(朝日新聞社,1954)・「水車工業」(『枚岡市史』,1967)・『江戸時代の科学器械』(恒星社厚生閣,1964,宗田一と共編)などの編著がある.西陣の機屋の調査は実家の山村家が呉服商であったことや,学生時代西陣に住まわれた縁もあろうか.科研費による「熱ルミネッセンスによる年代測定」はヨーロッパで開発された方法を日本の考古学に応用する初の試みである.1972年には高松塚天井星宿図の調査に携わっている.なお『明治前日本天文学史』(日本学士院,1960)では「西洋天文学の影響」を執筆しておられる.中国・日本における西洋天文学の受容について,先生は晩年まで強い関心を持っておられた.
  以上,主に研究業績の一端を紹介したが,所長や委員長・班長などとして組織やプロジェクトの運営・さまざまな交渉でも,確固とした見識により優れた成果を実現された.また,麻田剛立の墓の再建など,故人の顕彰や研究の振興に献身され,本会の現状と将来も常に深く気にかけておられた.広く門を開いて,来るものは拒まず,多くの弟子を養成した.そのほか,ちょっと意外なのは難解な漢文の解釈を仕事としていながら,と言うより,だからこそだが,ローマ字運動に関心を持っておられたことである.
  昨年2月に矢野道雄京都産業大学教授夫人がお宅に伺った時に,出版されたばかりの『中国の数学』(岩波新書,1974)のフランス語訳をお見せになったが,それからまもなく入院されたようである.今年の一周忌には全相運氏ら有志が集まって京都・東大谷本廟にお墓参りをした.戒名は俗名の字をとって釈清浄(しゃくしょうじょう),清廉潔白・公平無私の人柄にふさわしい.
  なお,業績については編著書を中心に紹介したが,多くは『東方学報(京都)』などに先行する論文がある.旧漢字は現代漢字に直した.

**同志社大学

Obituary
MIYAJIMA,Kazuhiko;“YABUUTI,Kiyoshi"

写真:
  藪内清先生.ご自宅にて,1982年5月12日筆者撮影.
  ニーダム博士お誕生日祝賀会(京都ホテル)にて,19 86年12月9日筆者撮影.