フェティシズム研究の射程(2000.4-2004.3) 第一、第三月曜二時半〜五時半
 『儀礼的暴力の研究』『主体・自己・情動構築の文化的特質』に続く、人文研での研究会を開きます。ものとそれに関わる人との関係をテーマとする『フェティシズム研究の射程』です。どういうことになるのか、いままでと同じく見通しは立っていませんが、フェティシズムあるいはフェティッシュをキーワードに文化横断的かつ領域横断的に議論を展開していきたいと思っています。わたしのこれまでの関心からいえば、post-agency概念としてobject-fetishに注目したい。そこからなにが見えてくるかを問うことで、信念のみで論じられているかに見えるagency論をなんとか克服したい、というのがわたしの理論的関心」です。その意味でフェティッシュ論はなお主体や自己についての議論を継承しているということになります。考えられるアプローチは宗教学、経済学、歴史学、精神分析、性科学、フェミニズム研究、物質文化論など多岐にわたっています。メンバー構成など詳しいことは追ってお知らせします。なお2005年度から「フェティシズムの文化・社会的文脈」研究会と名称変更

田中 雅一(代表)、菊地 暁、小牧 幸代、大浦 康介、阪上孝、高木 博志、竹沢 泰子(以上人文研)、速水 洋子(東南アジアセンター)、足立 明、田辺 明生 (以上AA地域研)、松田 素二(文学研究科)、荻野 美穂、川村 邦光、春日 直樹(以上大阪大学)、中谷 文美(岡山大学)、岡田 浩樹 (甲子園大)、窪田 幸子(広島大学)、斉藤光(精華大学)、佐伯順子(帝塚山学院)、細谷広美(神戸大)、箭内 匡(天理大学)、宇城輝人 (福井県立大)、川村 清志(大阪外大非常勤)、池亀 彩、石井 美保 、岩谷 彩子、金谷 美和、中谷 純江 (以上人文研研修員)、後藤 正憲 (大阪大学大学院人間科学研究科)、藤本純子(大阪大学大学院文学部)、佐藤 知久 、島薗 洋介、松嶋 健、佐藤木綿子、小池郁子、李ブンブン、宮西香穂里(以上京都大学大学院人間・環境学研究科)。


2000年度

第1回4月17日(月)田中雅一 問題提起と趣旨説明 自己紹介を兼ねた顔見せ会。社会科学系と「いきなりパーソナル」系に分かれそうな予感がしました。

第2回5月15日(月)春日直樹「はじめの一歩ーー『M.タウシッグ、南米の悪魔と商品フェティシズム』から」タウシッグの初期の話から入ったのですが、後半は最近のタウシッグと同じくわたしには難解でした。

第3回6月19日(月)中谷文美「Arjun Appadurai編著Social Life of Things のIntroduction部分に関する報告」何度か付き合ったテキストですが、なかなか議論を展開するのが難しい。これをどう利用できるのか、できないのか、課題として残りました。前回に続き偶然に懇親会でははたまた谷先生のコミュニケーション研究班と合流。

第4回7月3日(月)春日直樹「商品・美・主体」

夏休み  

第5回10月16日(月)田中雅一「ゴドリエ『贈与の謎』(法政大学出版局)をめぐって」前半はおもしろいが、後半はありきたりの宗教論。

第6回11月6日(月)箭内匡「マゾヒズムとフェテイシズムーーG.ドゥルーズ『マゾッホとサド』をめぐって」さすが、と思わせる議論でした。興奮しました。

第7回11月20日(月)菊地暁「民具・民俗資料・民俗文化財」

第8回12月4日(月)阪上孝「フェティシズム概念の誕生:Charles de Brosses <Du culte des fetiches>を中心に」これまた、さすが、と思わせる完成度の高い報告でした。

第9回12月18日(月)山口恵理子(筑波大学)「乳房という出来事:ギリシアのタマをめぐって」ミクロな視点から探求したギリシャの宗教の世界。

第10回1月15日(月)大浦「文学テクストにみるフェティシズム」谷崎のそこの深さを知らされました。

第11回2月5日(月)出口顕(島根大学)「臓器移植とアイデンティティ」これまた、さすが、と思わせる議論で、すぐに本が出ました。

第12回2月19日(月)高木「「国宝」というコレクション、「御物」というコレクション:日本近代の価値づけ」菊池氏の報告と併せて、この分野の議論はまだまだ考えることがたくさんあるようです。

第13回3月5日(月)松村薫子(総研大院)「糞掃衣と金襴袈裟」これまたあっと驚く袈裟の話。フェテッィシュの身体性と宗教性がよく現れていました。

第14回3月19日(月)斉藤光「性的フェティシズム概念の日本移入に関する予備的考察」お得意の日本性(科学)史。

2001年度

第15回4月16日(月)石井「かたどられる神とかたる神:ガーナ南部の精霊ととヴドウ祭祀」500年後の西アフリカでフェティッシュがどうなったのか。帰国したばかりの石井さんに報告してもらいました。箭内さんのコメントが印象的でした。

第16回5月21日(月)小牧幸代「イスラームの聖遺物とフェティシズム:北インドの事例」これまで無視されてきたイスラームの聖遺物について。

第17回6月18日(月)佐伯順子「フェティシズムをめぐる文学と映画:谷崎潤一郎『痴人の愛』を中心に」大浦報告を補う形で映像を盛り込んだ谷崎論でした。

第18回7月2日(月)田中雅一「性の展示--秘宝館研究事始め」

第19回7月23日(月)中谷文美「”Fetish” for whom?―「アジアの手仕事」のエスノグラフィー試論」おんなのポルノグラフィーともいえる布をめぐる欲望の話でした。

夏休み

第20回10月1日(月)細谷広美「Dialogical Fetishism:アンデスの奇跡と巡礼」
 わたしは入試関係の委員会で前半欠席。5時過ぎまでの大報告会でした。

第21回10月15日(月)岡田浩樹「増殖するモノたち:韓国仏教の現在」仏陀のアイドル化というかポップ化というか、韓国仏教界におけるシャカ君の登場には皆さんあきれていたのではないでしょうか。

第22回11月5日(月)川村清志「「ザクとは違うのだよ、ザクとは」ーー「我らが世代のフェティシズム:ガンプラ編」」ガンダムにかぎらず、プラモデルはフェチ研の重要なテーマです。川村氏の報告を突破口に類似の報告が出ることを期待しています。

第23回11月19日(月)藤本純子「消費される虚構/現在:〈上杉祭り〉にムラがる女性たちを事例として」事例は大変おもしろく、ボーイズ・ラブ小説のファンたちが米沢市の祭に参加することで生じる、虚構世界と祭の変容、さらに商品の増殖に光を当てた報告でした。

第24回12月3日(月) 佐藤知久「最も美に近い創造物:Drag Queenについて」フェティッシュとあまり関係ありませんでしたが、テーマはよかった。日本と欧米のゲイシーンの違い、日本女性は凹凸がないから欧米のゲイは日本女性となら寝れる言ってますというO教授のコメントが印象的でした。


第25回12月17日(月)成定洋子(ゲスト・スピーカー・エディンバラ大D.C.)
「戦後沖縄における死者・位牌・国家補償」位牌(トートーメ)と戦時補償との関係をめぐる現代的なテーマが取り上げられました。位牌をフェティッシュととらえることで何が見えてくるのか、議論が盛り上がりました。成定さんはこのまま沖縄で調査に入ります。そのまま先斗町でカニを食べる。

冬休み

第26回1月21日(月)田辺明生「インド史における宗教的シンボルとファルス:ストゥーパ、リンガ、ジャガンナートをめぐる差異と同一性のイコノグラフィー」
 スライド上映などにとまどりましたが、ストレートにファルスがテーマでした。

第27回2月18日 田村公江(龍谷大学)「精神分析におけるフェティシズムーなぜファルスなのか?ー」所用で遅れました。

第28回3月4日 宇城輝人「聴く機械について ――商品語の文化をめぐる予備的考察」音や写真など技術を通じてのミクロ世界の発見や複数技術の発達がわれわれのフェチ感覚を呼び起こしたのではないだろうか。

第29回3月18日 新宮一成(人間・環境学研究科)「精神分析におけるフェティシズム概念の発生と変遷」スリリングな報告でした。夜は夢判断で盛り上がりました。

春休み

第30回4月15日 これまでの総括:田中雅一・箭内匡

第31回5月20日 田中雅一「主体・身体・物体」

第32回6月17日 速水洋子「優しさの国タイへ向かう海外買売客 買う身体試論」わたしは読んだことありませんが、ホームページにはタイ人女性との交際を綴った告白がしばしば載っているようです。
第33回7月1日 Prof. Jan van Bremen, War Time Anthropology in the 20th Century:America, Europe and Japan.今回はフェティシズムにこだわらない公開講演でした。
第34回7月15日川村清志 「ネットの中のフェティシズム 端末化する身体と欲望」あいかわらずディープなweb フェチの世界でした。 

夏休み

第35回10月21日金谷美和 「アートの人類学とAlfred Gell Art and Agency」ジェルの遺稿となる書物をめぐる報告でした。モノ、フェティッシュを考えるにあたっては、Artあるいはartifactという広大な世界を無視するわけには行きません。

第36回11月18日小牧幸代「イスラームにおける象徴資源としての聖遺物
pricelessな「もの」の流通をめぐって」一番印象に残っているのは、言葉、子孫、聖遺物の3セットがいわば交換されないものとして、イスラームの「聖性」を根拠づけているというはなし。その対局にレヴィ=ストロースの交換理論における、言葉、女、モノが位置し、さらにクラストルの過剰性の議論が位置する。

報告要旨
イスラームにおいては理念上、神のことばであるクルアーンや預言者ムハンマドの言行録ハディース(「正真」とされるハディースのみ)に代表される抽象的で多義的な解釈の幅をもつ「ことば」こそが信仰の対象とされる。しかし、実際には預言者とその家族や聖者として崇敬される人々、そして彼らが遺した子孫や遺品といった具体的で可視的な人や「もの」もまた熱狂的な信仰の対象となっている。本報告では後者のうち、便宜的に「聖遺物」と翻訳できるイスラームの象徴資源に焦点をあて、イスラームの普及(世界各地におけるムスリム支配政権の確立)にともなう聖遺物の流通過程について考える。聖遺物はムスリム共同体(ウンマ)の指導者のシンボルとして(在地のムスリム支配政権の場合ははその部分であることを表明するためのシンボルとして)所有(または分有)され、各種の典礼や儀礼で重用されてきた。「イスラーム潮流」が趨勢となった今日でも、一部の地域を除いて、聖遺物はなおもムスリム支配のシンボルとして利用され続けている(たとえば、アフガニスタンの旧ターリバーン政権、そして本報告で取り上げるパキスタンのパンジャーブ州政府など)。今回は、現代南アジアにおけるイスラームの聖遺物の来歴をめぐる言説に基づいて、寄進・略奪・盗難・売買・相続といった王朝間・世代間などでの聖遺物の流通経路の事例を紹介する(時間が許せば、そうしたイスラームの聖遺物が実はヒンドゥー聖者の聖遺物であったと主張するヒンドゥー・ナショナリストの言説も合わせて紹介したい)。

第37回12月2日窪田幸子「地域博物館の交渉と抵抗 博物館と先住民」この研究会のテーマの一つである博物館展示とモノについての報告でした。先住民のアイデンティティ・ポリティックスという古くてあたらしい問題について、クリフォードの議論の検討という形で報告していただきました。

第38回12月16日村上辰雄(国士舘大学研究員)
報告題名 「宗教学におけるフェティシズム研究の意義と可能性:Materiality の問題を中心に」宗教学者のチャールズ・ロングのもとで研究した村上さんによる、フェティシズムについてのきわめて壮大かつ詳細な博士論文をもとにした報告でした。討論も活発でした。

冬休み

第39回1月20日有園真代「「生きられる文化」としての社会運動」トランス。セクシュアリティをめぐる報告。直接フェティシズムとは関係しませんでしたが、興味深い話でした。わたしは書類作りで、出たり入ったりの落ちつかない参加となりました。

第40回2月3日佐伯順子「異性装とフェティシズム(?)」修論審査のため欠席。

第41回2月17日長尾晃宏(ゲストスピーカー・名城大学経営学部助教授)
「消費としての蒐集〜ヒトとモノの関わりを探る」朝日新聞の記事「僕とペコちゃんとの深い仲」を読んで、強引にお誘いしました。長尾先生自身蒐集者であるということころからくる知識が、報告と討論に深みを出していたと思います。蒐集を消費と結びつけたところにオリジナルな発想を感じました。

第42回3月3日 岡田温司(ゲストスピーカー:京大人環)「ルネッサンスのフェティシズム、エロスと呪術」奉納物(ただし、実物大の蝋人形などもある)と女性の身体についての二本立ての話でした。どちらもおもしろいテーマでした。人文研の高階さんにも特別参加してもらいました。

第43回3月17日 田中正隆(ゲストスピーカー:一橋大学大学院博士号取得)「ベナン共和国南西部における子供、親族、霊の相関についての一考察」金銭の授受と子どものやりとりについて議論が集中しました。パーソンフッドの文化的解釈の後になにがさらに言えるのか。今後の課題です。

春休み

第44回4月21日(月)サビーネ・フルシュティク(京大人文研外国人客員研究員)
タイトル 「近代日本における知識と権力」

今回の報告では、歴史学的・人類学的な立場から、軍隊ではない
(かもしれない)自衛隊における「性」をめぐる問題を取り上げます。
まず最初に、性とジェンダーの管理空間としての軍隊の問題を歴史的
に考察し、次に1990年代後半以降の自衛隊における調査経験をふま
えて、日本軍および米軍との関係における自衛隊の多元的で流動的な
ジェンダー(マスキュリニティとフェミニニティ)問題のあり方を考えます。

第45回5月19日報告者:田川 泉(ゲストスピーカー・広島大学大学院)報告題名:「記憶と景観:米国インディアナ州の博物館を事例に」
 博物館についての本格的な博士論文を仕上げた田川さんの行き届いた報告でした。

第46回6月2日伊藤 遊(ゲストスピーカー・大阪大学大学院文学研究科
(日本学)博士後期課程、専門は民俗学)
報告題名:「方法としてのフェティシズム:考現学とその“末裔”から」
 個人的にはWeekend Superの時代から、いやアサヒはアカイの、それ以前から赤瀬川源平を追っているものにとって、考現学そのものよりその継承者についての今回は聞き逃せない研究報告でしたが、もうひとつおもしろさが伝わってこなかったような気がします。どういう切り口が可能なのか。

第47回6月16日 足立明
報告題名:「人とモノの関係:アクター・ネットワーク論とフェティシズム現象」
 アクターネットワーク論の宣教師としてはや○○年。こんかいはフェティッシュの世界に挑戦していただきました。残念ながら、●●フェチの本領発揮というところまでにはまだ時間がかかりそうです。

第48回7月7日 大西秀之(ゲストスピーカー・総合地球環境学研究所)
報告題名:「モノとコトバのはざま:社会的実践論としての技術研究の可能性」

夏休み

第49回10月20日 田口理恵(ゲストスピーカー、東洋文化研究所)「物持ちの持ち物:大村しげコレクションからの検討」

報告者からの伝言:民博・大村しげ生活財コレクションに関する報告。
なお、大村しげコレクションの概略については、『民博通信』No.101
(2003年)の特集「モノ世界のフィールドワーク」を参照。

第50回11月17日
報告者:小牧 幸代
タイトル:「贈与の名前:北インド・ムスリム社会における贈与者/受贈者
関係の諸相」

第51回12月1日 港千尋「歪んだレンズ」               
要旨: 祭壇〜表象装置と身体的インタフェース 港千尋   画像記録技術が光学−化学系から光学−非化学系へ、さらに非光学−非化学系へと大きな転換をとげつつある現在、表象装置としてのカメラは、かつてのような知の枠組みとしてのモデルではなくなりつつある。たとえば世界を同型のまま縮小し、雛形をつくるという近代的光学は、今日のシステム論においてはもはや有効な図式ではない。生命科学において進化論が紆余曲折を経ながらも生き延びているのとは対照的に、社会科学における進化論的文明論は今日死に絶えたかに見える。だが19世紀が残したタイポロジー空間は、それを批判的に読み解くとき、科学と芸術が協同できる場となる可能性がある。光学系でも、非光学系でもない、第三のレンズとも言うべき変換装置となりうるのである。ここではすぐれて物神的な装置である「祭壇」をとりあげ、そのメディアとしての魅力と面白さについて考えたい。
 
 画像資料
 ・オックスフォード大学付属 ピット・リヴァース博物館
・ 大英博物館企画展 「心の博物館」「幽霊博物館」
・ チャップマン兄弟個展
 その他

ひさしぶりの芸術系の報告で、いろいろとお話しすることができました。わたしは2日前に海外出張から帰国疲れていましたが、楽しめました。

冬休み

第51回1月19日 
報告者:松田素二
タイトル:「平和のフェティシズム考 文化的フェティシズム批判を超えて」
聖地広島におけるフェティシズム政治学を論じる。基本は戦略的本質主義と同じスタンスか?鶴、碑、骨が論じられた。象徴として捉えるか、前言説的な効果を持つフェティシズムと捉えるべきか、むずかしいところ。


第52回2月2日 地域交換通貨システムLocal Exchange Trade System (LETS)特集
 ◆報告1:中川理(ゲスト:学振特別研究員)
     「売ったり買ったり」と「あげたりもらったり」のあいだ
        〜フランスのあるSEL(地域交換システム)における交換      ◆報告2:織田竜也(ゲスト:民博共同研究員)
     交換システムの解釈学:スペイン・カタルーニャの場合

第53回2月23日 中村宏(ゲスト:画家)

第54回3月1日 佐藤啓介(ゲストスピーカー:京都大学大学院文学研究科)「偶像、イコン、もの:現代キリスト教神学に見るものへの裏口」
第55回3月15日 内山田康(筑波大学)
タイトル「内在権力の建築」(Architecture of Immanent Power)

なお、4月からは数回の集中的討議を週末などに行い、報告集の準備
を進めたいと思いますのでよろしくご協力下さい。

第55回12月6日
◆報告1:コーリン・ダンカン(Colin A.M. Duncan)
 カナダ・マギル大学 (McGill University)
「生きている自然と地域経済の関係に関するアダムスミスの言説」
"Adam Smith Said Living Nature Favours Local Economy "(英語講演)

◆報告2:ルース・サンドウエル(Ruth W. Sandwell)
 トロント大学オンタリオ教育研究所 (University of Toronto)
「微視的歴史、資源利用、そして地域経済」
"Micro-History, Resource Use, and Local Economy"(英語講演)

第56回3月2日

1.三枝憲太郎(国立民族学博物館・外来研究員)
  「歴史を具体化するということについて」 
2.内山田 康(筑波大学大学院・教授) 
  「山と神を盗られたクラヴァ」

報告要旨
1.三枝憲太郎(国立民族学博物館・外来研究員)
  「歴史を具体化するということについて」

イングランドでは今日カントリーサイドへの移住がミドルクラスに属する人々の間で一つの制度として成立しているといっても過言ではない。農村部を平和で満ち足りた場所として理想化する傾向はきわめて広範にみられるけれども、その多くは、少数のエキセントリックな例外を除けば、表象的なレヴェルにとどまっている。イングランドの例がある意味で特異なのは、それが現実に年間15万を越す、その多くは特定の階級に属する、人々をつき動かしカントリーサイドへ移住させているという点である。この傾向は、1970年代にはじまるいわゆるカウンター・アーヴァナイゼイション以降衰えることなく続いており、その結果、カントリーサイドのミドルクラス化という現象が一部において発生するにいたっている。この現象はきわめてシニカルな語り口で描写されることが多いけれども、地縁も血縁もない土地に移り住んだ彼らが新たな環境との間に個人的に意味のある関係を築き上げようとしている様子がポジティヴにとらえられることは少ない。このプレイス・メイキングの過程は、親族関係でいうアドプションに似ており、そこでは、careとeffortという対象との意識的な関わり方が強調される。本発表では、イングランド中西部の事例から、そうした関係のうち、彼らと土地の歴史の関わり方、そして歴史を前にした時に彼らが示す独特な態度について、報告と考察をおこないたい。

2.内山田 康(筑波大学大学院・教授) 「山と神を盗られたクラヴァ」

私が1992-1993年に15ヶ月住んだケーララ南部のある村の近隣では、クラヴァが最も卑しいと見られていた。クラヴァは公式には「不可触民」に分類されていたが、近所の人々は、不可触民のプラヤやパラヤよりさらに文化的に劣っていると見て、クラヴァが「不可触部族」だと思っていた。クラヴァたちは山と森と特別なつながりを持ち、森に覆われた低地の丘陵部に住んでいたが、土地台帳や19世紀の初頭に建てられたシリア派キリスト教徒の教会の建立にまつわる口承などから知られる限り、過去1世紀以上にわたってその土地を失っているようだった。1996, 1997, 2000年の調査で、私は山や森に棲むクラヴァの神々の変容について調べ始めた。今回の発表では、2004年の夏に行なった調査で見聞きしたクラヴァたちとその山、森、神々との急激に変わりつつある関係、同時に進行しつつあるブラーマンによる悪魔払いの流行、2年前からクラヴァの女神に憑依するようになったあるプラヤの若者による悪魔払いの事業的成功、有力者たちによるクラヴァの寺院の大改修事業とその前に起こったブラーマンの追放と訴訟、クラヴァの山でクラヴァの祖先をシヴァに置き換えた出来事、クラヴァと関わりの深い女神マルタがある寺院から追出され訴訟へと発展した事件を紹介した後、これらの一連の出来事をどうみるか暫定的な見解を話す。

春休み

今年度から名称が、フェティシズムの文化・社会的研究 となりました。

第57回 2005年6月6日(月)出版打ち合わせ

第58回 2005年6月20日(月)

報告者:森村麻紀(日本学術振興会特別研究員)
   
題名:覗き見の視覚文化:初期映画における露出症的構造の一考察
    (ビデオ上映あり)

要旨:「初期映画」とは、一般に1894、95年から1910年代半ばまでに製作された
草創期の映画のことをいう。多くの初期映画の目的は、どちらかといえば、物語
によって観客を見世物へ導くというより、スペクタクルなものを観客に見せ、驚か
せることにあった。その意味において初期映画は「露出症的」であり、ゆえに観客
は「窃視症的」であるといえる。そこで本報告では初期映画の露出症的な要素に
着目し、映画草創期に人々がなぜ映画に魅了されたのかという問いを、以下の
考察から明らかにすることを試みる。@1894年に興行を開始した覗き見式の映画
「キネトスコープ」をとりあげる。キネトスコープ(装置)における覗き見式の興行
形態に触れながら、キネトスコープから覗き見られた映画について考察する。
Aスクリーン投影式の初期映画であり、主に1900年から1906年にかけて製作され
た「鍵穴映画」と呼ばれるジャンルをとりあげる。「鍵穴映画」は、登場人物が鍵穴
などの覗き穴から何かを覗き見るショットと、その人物の覗き見たもののショットが
スクリーンにうつしだされる映画のことをいうが、本報告では複数の「鍵穴映画」の
露出・u桴ヌ的な要素である映画の内容とクローズアップなどの映画のスタイルに
ついて考察する。


第59回 2005年7月25日(月)
  報告者:青木恵理子(龍谷大学)


第60回 10月17日(月)
  報告者: 西村大志(広島国際学園)ダッチワイフの歴史


第61回 11月7日(月)
  報告者: イヤル・ベン・アリ(エルサレム・ヘブライ大、京大人文研客員教授)フェチ研、日時:2005年11月7日(月)14:30〜18:00
場所:京都大学人文科学研究所本館(東一条)・西館大会議室

題名:Snipers of The Israel Defence Forces in the Al-Aqsa Intifada:
Killing, Weapons and Soldiers’ Bodies

In my presentation I will offer an analysis of Israeli military snipers who servedduring the Al-Aqsa Intifada (the current conflict between Israeli forces and thePalestinians). I will focus on two sets of issues: first, I will be arguing with thescholarly consensus that for killing to take place, perpetrators have to somehowehumanize their enemies. Based on interviews with thirty individuals, it shows thatsnipers do not always need to dehumanize their targets and that they experiencekilling in conflicting ways, both as pleasurable and as disturbing. The sniperssimultaneously deploy distancing mechanisms aimed at dehumanizing enemies andconstantly recognize their basic humanity. The second set of issues focuses on thelived experience of the snipers: on their training and on the ways in which theyhandle and learn to live with their weapons. I will link my analysis to widerpropositions about the relations between soldiers and weapons.


第62回 11月21日(月)
  報告者:加藤幹郎(京都大学大学院・人間環境学研究科教授)

  タイトル 映画館と観客

要旨
本報告は題名にあるとおり「映画館」と「観客」についての報告であるが、この「映画館」と「観客」のあいだには、さらにふたつの審級がはさまっており、つぎのような四つの審級において前後2回にわたる本報告全体の見取り図をあらわすことができるだろう。

映画館(シネマ)/上映装置
映画作品(フィルム)
プログラム
観客

 第一の審級たる「映画館(上映装置)」において、わたしたちが問うべき問題は、映画館の設計、装飾、設備、運営、立地、共同体などとの関係である。第二の審級たる「映画」においては、どのような映画がどのようにして映画館に配給され、どのように宣伝されるのか、つまり映画が配給会社と興行会社とのあいだでどのようにあつかわれるのかということが問題となる。第三の審級たる「プログラム」においては、映画館で映画が興行者によってどのように上映されるのかが問われることになる。たとえばサイレント中期のアメリカでは映画の上映はスライド・ショー付き合唱と交互におこなわれていたし、サイレント後期には映画(長篇映画)の上映は一連の音楽演奏や実演ショーや短篇映画の上映が終わらないとはじまらなかった。トーキー期には長篇映画の二本立てがあたりまえになり、それにともなって実演ショーが激減し(とはいえ完全になくなったわけではない)、ドライヴ・イン・シアター期になると映画は猥雑ともいえる実に多様な空間のなかに放りこまれることになる。今日のシネマ・コンプレックス期におけるプログラム・コンセプトは合理的であり、ピクチュア・パレス期の新中産階級的モラルを模倣するようになってい る。そして第四の審級たる「観客」においては、実体と理念双方において(というのも、ひとは映画館のなかや映画装置のまえ以外では観客であることをやめている存在なので)観客なるものの多様性が解明されねばならない。観客は映画館のなかでどのようにふるまうものなのか、彼らは映画館のなかでどのようにあつかわれているのか、観客は映画館(上映施設)をどのように利用するのか、そういったことが問われねばならない。
 むろん、これら四つの審級は相互に截然(せつぜん)と分けられるものではない。むしろ相互規定的に連関して、はじめて意味をもちうるものである。興行(プレゼンテーション)とは別の言いかたをすれば、映画受容の経済的次元であり、映画館の運営と映画上映をめぐるプログラミングの問題は興行者の重要な仕事であり、それゆえまた映画館とそのプログラムは観客の重要な関心事となる。映画館がいかなる場所であり、そこでどのように映画が上映されるのかということは、観客が映画作品をどのように理解するのかという問題と切り離せない。観客がどのような場所で、どのような方法で映画と呼ばれるものを見るのか、場所と方法の違いによって観客の作品受容にどのような変化があらわれるものなのか。作品のなかにあって観客によってあらかじめ無視されるか、見落とされるか、なんでもない些事としてかたづけられるか、そもそも最初からそんなものは存在しないと考えられる(か、あるいはそう考えるよう長いあいだ無意識的に教育されてきた)ものは、映画の媒体と場所の差異によって、どのような様相を呈するのだろうか。
 そもそもひとは映画館(ないし上映装置)のなかで(それをまえにして)しか観客にはならないのだから、映画館と観客という本報告のタイトルは冗語法でないとしたら、二詞一意(ヘンダイアディス)ということになるだろう。つまり映画館と観客は、そのふたつの語でひとつのことを意味するのである。もっとも、これは映画館のなかでひとが観客にならないことを妨げはしない(入場券を購入したときから、ひとは統計的には観客となっているにもかかわらず)。映画館のなかでひとが観客にならないとすれば、ではいったい彼あるいは彼女は何者になりうるというのだろうか。そのような主体のダイナミズムのなかで映画館ははじめて多様な容貌を見せるにちがいない。



12月 5日(月) 班長が出張のため休会
12月19日(月) 班長が出張のため休会
第63回
 2006年1月16日(月)14:30〜18:00
場所:京都大学人文科学研究所本館(東一条)・西館大会議室
報告者:加藤幹郎(京都大学大学院人間環境学研究科 助教授)
題名:映画館と観客---第2回 日本篇   
1)映画史初期から古典期にかけての弁士システムの実態について
2)1917年施行の警視庁の「活動寫眞取締規則」のうち映画館と観客
に関する規則施行の実態について
3)「連鎖劇」/「小唄映画」というサイレント期の二大特異ジャンルの
日本映画史における意味について
フェチ研:最終回
日時:2006年2月6日(月)14:00〜18:00

場所:京都大学人文科学研究所本館(東一条)・西館大会議室
報告1:足立明(京都大学大学院AA研究科・教授)
 「人−モノ関係におけるフェティシズムという出来事

報告2:木下彰子(京都大学大学院AA研究科・博士課程)
 「インド・ポスター宗教画とその変容:マテリアリティ・制作・図像をめぐって」




   



 

 


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