Journaux

ACTION 『アクション』。「68年5月」を代表する新聞。特定党派の機関紙ではなく、共産党を抜けたジャーナリストが、学生運動の三大組織であった「フランス全学連」UNEF、「3月22日運動」(アナキズム系)、「革命的共産青年団」JCR(トロツキスト系)に呼びかけて作られ、それらの合同機関紙として出発した。発刊は5月7日。5万部が同日のデモ会場で手売りされた。創刊号には、やがて「革命的同性愛者戦線FHAR」を結成して有名になるギイ・オッカンゲム(当時はトロツキスト)が匿名で「我々はなぜ闘うのか」という巻頭記事を寄せている。2号(5月13日刊)からは、各大学、各地区の様々な「行動委員会」のための「新聞」と位置づけられた。3号まで週刊であったが、4号からは運動の拡大とともに日刊化し、7月の中断までほぼそのペースを守っている。しかし夏休みをはさんで9月からはまた週刊に戻り、69年6月まで発行された(最終刊は46号)。本サイトには40号までのほぼすべての号(33号と37号が欠)を収録している。
ACTION


L'enragé 『アンラジェ』。風刺画を駆使して「5月」の運動の動向を伝えた雑誌。『アクション』(リンク)と並ぶ知名度があった。タイトルのenrageは「過激派」ぐらいの意味。雑誌は1968年5月から11月まで12号発行された。発行人は『悪徳の栄え』を初めて公然出版したことでも知られる、編集者で作家のジャン=ジャック・ポヴェール。「本誌は敷石である」と題された創刊の辞には「これは火炎瓶の導火線に使える。/これは警棒避けに使える。/これは催涙ガスよけの紙にも使える。…」とある。
L'enragé


LE POINT 『ポワン』。学生組織が編集主体と思われるが、詳細は不明。本サイト収録は、第16号別冊(1968年5月)。風刺画家シネが編集部に宛てた5月7日付書簡が、「立て、ナンテールの呪われし者たち」(フランス語版『インターナショナル』の第1番歌詞の冒頭をもじっている)と題されたイラストとともに掲載されている。第4面には、5月3日から5日の情勢が記されている。
LE POINT


Le Populaire 『抗議者』。隔週刊誌の第21号(1968年7月16~31日号)。最終ページに発行人の名前としてE. Gerardとあるが、詳細不明。同号では風刺画を掲載した後に、解散総選挙後に成立したクーヴ・ド・ミュルヴィル内閣の閣僚らの経歴と、内務省総合情報局の公安捜査の概要が批判的に紹介されている。
LE PROTESTATAIRE


AVANT GARDE 『前衛』/『新前衛』。1966年に創設されたトロツキスト系「革命的共産青年団」JCR(Jeunesse Communiste Révolutionnaire)の機関紙。第四インター系の「共産主義者同盟」LC(Ligue Communiste :1969-1974)およびその後継組織「革命的共産主義者同盟」LCR(Ligue Communiste Révolutionnaire : 1974-2009)の下部青年組織と位置づけられる。同じ略称JCRをもつJeunesses Communistes Révolutionnaires( (1979-2008)とは別組織。隔月刊で14号(68年5月、本サイト収録)まで刊行された後、いったんLa Nouvelle Avant Gardeに衣替えされたが、これは1号のみしか発行されず(本サイト収録)、元の紙名に戻った。その頃から、フランスでの発行が官権との関係で困難になり、第四インターの本部があったベルギーに拠点を移している。68年前後におけるJCRの活動は、ベトナム反戦委員会の組織化を中心としていたが、パリ大学ナンテール校における「3月22日運動」(アナキストであったダニエル・コーンバンディが中心)の結成にもかかわっている。植民地解放闘争と「先進国」における学生運動と労働運動、さらに社会主義諸国における反官僚闘争の結合を主張した。中心的な活動家としては、69年と74年の大統領選に出馬したアラン・クリヴィーヌや、その後哲学者として数多くの著作を発表することになるダニエル・ベンサイードなどがいる。
AVANT GARDE


rouge_n18 『ルージュ(赤)』。Avant Gardeを発行していたJCRの上部組織にあたる「共産主義者同盟」LC(Ligue Communiste)および、その後継組織「革命的共産主義者同盟」LCR(Ligue Communiste Révolutionnaire)の機関紙。ただし創刊はLCの結成(1969年6月)よりも早い1968年9月。LCRは1974に結成。機関紙は2009年まで続き、LCRの解散にともなって同年に廃刊された。これらの組織は、機関紙名から「ルージュ派」とも呼ばれた第四インターナショナル内最大党派である。2009年の解散は、トロツキズム運動の行き詰まりによるというより、反グローバリゼーション運動の高まりのなかで大量の新党員を獲得した結果、党のヘゲモニーが若い世代に移行し、彼らが「トロツキズム」よりもエコロジーやフェミニズムを含んだ「反資本主義運動」の中核として、党を刷新することを求めたためである。その結果LCRは解党し、「反資本主義新党」NPAが生まれた。
rouge


La Quatrieme Internationale1 『第4インターナショナル』。第4インターナショナル・フランス支部の国際主義共産党Parti communiste internationaliste (PCI)の機関紙、68年5月号。PCI党員だったアラン・クリヴィーヌらは、共産党の学生組織「共産主義学生連合」UEC内にフラクションを作るが、1965年に党からパージされ、1966年4月に「革命的共産青年団」Jeunesse communiste Révolutionnaire (JCR)を結成した。PCIは、1968年6月12日に当局の解散命令により解散。同時に解散したJCRと統合し、共産主義者同盟Ligue communiste (LC)となり、74年からは革命的共産主義者同盟Ligue communiste Révolutionnaire (LCR)となった。
La Quatrieme Internationale


VoixOuvrière 『労働者の声』。トロツキスト系の「共産主義者連合」UE (Union communiste )の機関紙。組織の歴史は第二次大戦前に遡るが、Voix ouvrièreは1956年に創刊された。68年6月の大統領令により、他の極左系メディアとともに発禁処分を受け、名前をLutte ouvrière(次項参照)と変えて再出発して現在まで続いている。機関紙の名前がそのまま派の通称として用いられることが多い。大統領選をはじめ様々な選挙に積極的に参加するが、宣伝活動の一環としての意味合いが強く、指導部は立候補しない。とりわけ、74年から2007年まで、党スポークスマンの肩書きでアーレット・ラギエが6回の大統領選に出馬し、極左の顔となった。
Voix Ouvrière


Lutte ouvrière n°21 『労働者の闘争』。1930年代後半に結成されたトロツキスト系サークルを源流とする、同名党派(Lutte ouvrière)の機関紙(週刊)。1956年から「労働者の声」Voix ouvrièreと名乗り、同名の機関紙を発行していたが、1968年6月の解散命令の対象となり、「労働者の闘争」に組織名と新聞名を変更する(同派の活動については、Voix Ouvrièreの項も参照)。収録したのは、「五月革命分析」特集号(第5号、1968年8月)。なお第4インターナショナルとは、1939年の共産主義者連合(UC)段階で決裂。現在も、独自の「国際共産主義者連合」Internationalist Communist Union (ICU)という国際ネットワークを作る。
Lutte ouvrière


Le syndicaliste 『サンジカリスト』。CGT、CFDTに続く第3の労働組合ナショナルセンター「労働者の力」CGT-FO加盟の産別組織「合同化学労組」の機関紙。収録した第74・75合併号(1968年5月号)は、執行部選挙結果と全国大会の報告、労働条件改善の具体的要求内容のほか、組織として学生運動に対する全面的支持を打ち出している。
Le syndicaliste


révoltes 『叛乱』。トロツキスト系だが、JCR / LCRやUEとは異なる「ランベール派」の学生団体「革命的学生連盟」FER (Fédération des étudiants Révolutionnaires)の機関紙。同組織は68年4月に結成された。上部組織名は「国際共産主義組織」OCI。党派としてはJCR / LCRやUEより小さかった。この号はドイツのルディ・ドゥチュケ襲撃事件を大きく伝えている。ドゥチュケは「社会主義学生同盟」SDSの有名な活動家で、4月に右翼青年により頭に3発の銃弾を浴び、瀕死の重傷を負った。
révoltes


la cause du peuple 『人民の大義』。紙名は19世紀に存在した同名の新聞に由来する。68年5月1日に発行された毛沢東派の新聞。9月に「プロレタリア左派」GP (Gauche prolétarienne)が結成されて以降は、その実質的な機関紙となった。毛沢東主義と「自然発生性」重視路線を共存させた。同派は6月にアナキスト系の「3月22日運動」と「青年共産主義者連合(マルクス=レーニン主義派)UJC-ml」が司法当局によって解散を命じられた後、両派の活動家の一部を糾合して作られた。それ以来、同紙はしばしば発禁処分を受け、裁判闘争を通じて支援を得ることになったサルトルが、70年の20号(5月1日刊―本サイト収録)から73年9月まで発行人を務めた。しかし同年4月に彼が『リベラシオン』紙の発行に携わるようになって、『人民の大義』もそこに吸収されて消滅した。
la cause du peuple


VICTOIRE pour le VIETNAM 『ベトナムのための勝利』。「ベトナム底辺委員会」CVB (Comités Vietnam de Base)の機関紙。このグループは毛沢東派の「青年共産主義者連合(マルクス=レーニン主義派)」UJC-mlが、トロツキスト系の「ベトナム全国委員会」CVN (Comite Vietnam National)に対抗して、1966年にUJC-ml設立と同時に立ち上げた。UJC-mlは高等師範学校内の共産党系学生グループ(通称「ユルム・サークル」)が党から離脱して作ったもので、中心的活動家はみなアルチュセール派であった。アルチュセール自身は彼らの「別党コース」に反対したが、機関誌『マルクス=レーニン主義手帖』に匿名で原稿を寄せている。CVBとしての独自活動はCVNほど活発ではなく、学生中心であったUJC-mlが労働者に支持を広げるためのフロント活動的色彩が強かった。
VICTOIRE pour le VIETNAM


Le courrier du Vietnam 5e annee n°161 『ベトナム通信』。ベトナム民主共和国(北ベトナム)外務省が刊行していたフランス語の日刊紙(1964年創刊)。この1968年4月22日号は、すべてのページを使って当時の戦況を伝えている。その後、1993年にベトナム国営通信社の週刊紙名となった。
Le courrier du Vietnam


L'Humanite nouvelle 4e annee n°101 『新ユマニテ』。共産党を除名された、ジャック・ジュルケらを指導者とする、中国派の党派「フランス共産党(マルクス=レーニン主義派)」(PCMLF)の機関紙。1965年に前身の「マルクス・レーニン主義サークル連盟」Federation des cercles marxistes-leninistesの機関紙として発刊され、68年6月のPCMLFへの当局の解散命令まで存続。収録したのは第101号(1968年5月9日~16日号)と、第102号(1968年5月17日~23日号)。第101号は、学生反乱について「正義の学生闘争万歳」と支持する一方で、チェコスロバキアの民主化を「修正主義」と批判する論説を載せるなど、教条主義的な色彩が強い。第102号では、学生運動の全体的な動きを紹介しつつ、自党の論説を載せている。後継紙は『赤いユマニテ』(次項参照)。
L'Humanite nouvelle


L'Humanite Rouge 1re annee n°8 『赤いユマニテ』。1968年6月のPCMLF解散命令と『新ユマニテ』廃刊を受けて創刊された週刊紙。75年まで存続した。PCMLFが解散命令を受けて非公然化したため、発行主体は明記されていない。収録した第8号(1969年4月10日号)は、中国共産党第9回大会を称賛する記事が主だが、関係の深かったアルバニア共産党の祝賀メッセージの扱いがベトナム共産党のものより大きい、といった特徴も見られる。69年の大統領選挙には左右のあらゆる候補に反対して「革命的棄権」を呼びかけた。
L'Humanite Rouge 1re annee n°8


Tribunesocialiste 『社会主義トリビューン』。「統一社会党」PSF (Parti socialiste unifie)の機関紙。同党は1958年に、現在の社会党PSの前身である「労働インターナショナル・フランス支部SFIO」から分派して形成された。68年当時はミシェル・ロカールが全国書記を務め、社会党と共産党から一線を画す反乱肯定の立場を取り、党勢を拡張した。69年の大統領選ではロカールが出馬して 、3.6%を得票している。路線は自主管理社会主義である。しかし彼の率いる指導部は次第に現実主義-議会主義に方向転換し、74年に社共が「左翼共通綱領」を策定すると、党を離れて社会党に合流した。フランスで「新左翼」la nouvelle gaucheというと、彼らのような議会主義への転向派を指す場合が多い。ロカールはミッテラン社会党政権のもとで首相を務めた。
Tribune socialiste


Le Populaire de Paris 『パリの民衆』。フランス社会党PSの前身「労働者インターナショナル・フランス支部」(SFIO)の機関紙。1918年4月に日刊紙として創刊された。本サイト収録は1968年5月23日号。1965年にミッテランを代表に結成された、国会における非共産党左翼の連合体「民主社会主義左翼連合」Federation de la Gauche Democrate et Socialiste (FGDS)の動向と、労働者やストの動き、各労組ナショナルセンターの主張が記されている。
Le Populaire de Paris


NANTERRE - INFORMATION 『ナンテール情報』。パリ大学ナンテール分校のUNEF系学生グループ(=共産党系)が独自に発行していたジャーナル。この号は6月半ばに発行され、「全国学生共済組合」MNEF (Mutuelle Nationale des Etudiants de France)の設立を目指してUNEFを強化しようと訴えている。「5月」の終焉を迎え、共産党がいち早く運動を大学内「経済闘争」に回収しようとしていたことを窺わせる。
NANTERRE - INFORMATION


LE PAVE 『敷石』。詳細不明。「革命情報委員会」Comite d’information Révolutionnaire発行の「ビラ1号」となっており、その内容も政治党派の機関紙というより、バリケードや占拠の情報を伝え、参加を呼びかけるアジビラに近い。巻頭にはローザ・ルクセンブルクの文章が銘として掲げられている。Paveとは道路の四角い「敷石」のことで、これが大量に剥がされて、バリケードの材料として使われた。
LE PAVE


TemoignageChretien 『キリスト者の証言』。今日まで続くカトリック系のジャーナルであるが、ドイツ占領下でのレジスタンス運動のなかで誕生し、戦後も様々な植民地解放運動やパレスチナ闘争を支持するなど、左翼色が濃厚である。アルジェリア戦争時には官憲から度々の押収処分を受けた。5月16日発行のこの号では、「大学を揺さぶった12日」と題して各大学の様子を詳しく伝えるほか、「反乱の立役者たち」という記事で、主な運動団体や左翼党派、有名な活動家について分かりやすく解説している。
Temoignage Chretien


Aux ecoutes du monde n°2288 『世界週報』。1918年創刊の週刊紙(1969年に廃刊)。掲載した2288号(1968年5月20日~26日)には、「暴動から革命へ 学生の勝利」というタイトルがつけられている。学生運動を中心とした「5月」の推移を写真や風刺画を交えてたどった後で、政府の反応などを紹介している。このほか、世界情勢や文化関係の記事も掲載されている。
AUX ECOUTES DU MONDE


LE TOGEM 『トジェム』。「パリ無政府主義高校生・学生協議会」ALEAP(Association des lyceens et etudiants anarchistes de Paris)発行の雑誌。団体名には大学生も含まれるが、高校生を中心としたグループだったようである。66-68年に数号が刊行されていたらしく、パリ市内の14のリセに支部があると謳っている。
LE TOGEM


LE MOUVEMENT ETUDIANT 『自由世界』。「アナキスト連盟」Federation anarchiste (FA)発行の月刊誌(当時。現在は週刊)。前身の雑誌の創刊は1858年に遡る。『自由世界』としての刊行は1954年から。第142号(1968年5月号)は「五月一日(=メーデー)は革命闘争のもの」というタイトルで、連盟支部の活動紹介や論説が掲載されている。
Le Monde Libertaire


L'insurge 『叛徒』。「無政府主義革命組織」Organisation Révolutionnaire anarchiste (ORA)の機関紙。ORAは、アナキスト連盟(FA)の方針に不満を抱いた若い活動家層が、1967年にFA内部で結成した組織。連邦、国際主義、自由をキーワードとした、無政府主義的社会主義を標榜する。収録した第3号(1969年6月15日号)の表紙では「戦争に反対し、労働者インターナショナルを建設しよう」と謳われている。ベトナム戦争の動きを伝える記事のほか、69年6月の大統領選にアラン・クリヴィーヌを出馬させた共産主義者同盟(LC)らトロツキストの戦術を批判し、ローカルなレベルでの直接行動、革命的サンディカリズムが真のインパクトを生む、と主張する論説を掲載している。
L'insurge


L'UNITE OUVRIÈRE 『労働者の団結』。詳細不明だが、CGT(フランス労働総同盟)のルノー社フラン工場支部が独自に発行していたジャーナルのようである。パリ郊外にある同工場はルノー社の最古かつ今日でも最大の工場である。68年当時は国営の「ルノー公団」で、CGTの拠点でもあった。CGTのゼネスト方針のもと、工場が労働者と学生に占拠されたが、6月初めに警官隊が導入されて強制排除され、狭義の5月革命の終わりを告げた。実質的にはビラであるこの同紙2号は、占拠中に発行されたようである。
L'UNITE OUVRIÈRE