軍事環境問題の研究 -- A Transdisciplinary Study of the Environmental Impact of Military Activities

Fieldwork

沖縄

2013年11月(AMES)

My visit to Okinawa in November involved fieldwork on two ongoing projects. The first is on how change in the consumption of "America" through Amerikaa-mun or "American goods" in postwar Okinawa may be related to shifting asymetrical power relationships between Okinawa and the U.S. military both institutionally and at the level of individuals. I conducted several interviews of officials, such as Ms. Ishiki or Okinawa City Municipal Office and Section Chief Sakihara of the Okinawa City Tourist Bureau and staff at the "Historiito" postwar museum in Okinawa City. I also interviewed Ms. Inamine Fumiko, the Managing Director of the imported goods' supermarket chain "Jimmy's." Through "snowballing" made possible in part through former informants and a local journalist, I interviewed seven Okinawans in different generations to grasp how they believe their generation perceives the U.S. bases and Amerikaa-mun. The interviews made it clear that there are discernable generational differences in how the U.S. bases and their material cultural influence on Okinawan society and culture are perceived.

The second project involves cultural assets on U.S. bases in Okinawa and the practices of cultural resources preservation. I interviewed an individual whose family has held land since the war on Kadena Air Base regarding visiting practices and the preservation of former village assets. I also photographed some cultural assets found on the bases and worked with an Air Force representative to follow the process of how his military unit handled the discovery of cultural resources on a construction site recently. (文責:Chiristopher AMES)

2013年9月(越智)

土地接収による移住に伴い移動した聖地
土地接収による移住に伴い移動した聖地
再建された泉
再建された泉
復活した祭祀
復活した祭祀

9月に、沖縄県那覇市の新都心と呼ばれる地区で調査を行った。この地区は、沖縄戦の際は激戦地となり戦後は米軍により強制接収された「悲劇の地」であった。この地区には共有資源が含まれていたが、こうした悲劇の記憶が返還後の共有資源の管理のあり方にいかなる影響を与えているのか、またコミュニティがどのように変質しているのかを調査した。

現在新都心と呼ばれる地区に戦前から居住していた住民の多くは、サトウキビを中心とした畑作で生活していた。旧村落では個人所有の私有地以外に、隣村との緩衝地や燃料用の草地、聖地、泉、黒糖を作る小屋、広場などが共有資源として存在していた。しかし、沖縄戦と戦後の米軍による土地接収によって、居住者はその地区からの移住を強いられた。住民の多くは農業をあきらめ、賃金労働者となり、共有資源も使用できなくなった。接収された土地はフェンスで囲われ、米軍の住宅地へと変貌した。1972年の日本復帰以降、接収された土地は徐々に返還され、全面返還後は行政と地域振興整備公団による開発が行われて商業地や住宅地が生まれた。しかし、元の住民は旧集落には戻らず、移住先での暮らしを維持している。新都心の一地区では、旧集落内に存在する共有地を一括して商業施設を誘致し、そこで得た利益を祭祀開催や福利厚生を通じて旧住民に還元することで、離散した旧集落出身者の繋がりを維持していることがこれまでの調査によって明らかになっている。

今年度の調査では、まず沖縄国際大図書館や沖縄県立図書館において沖縄内の地域史や新聞資料を閲覧し、沖縄内において軍用地として接収された土地の変遷について資料収集を行った。次に、現在4つの地区からなる那覇市新都心内の2つ地区(仮にA、B地区と称する)に関して調査を行った。2地区出身の高齢者5名からのライフヒストリーの聞き取りを通じて、昭和初期から現在に至るまでの生業、土地利用や村落祭祀の変遷、土地返還後の開発とまちづくりにおける旧村落居住者の関与について調査を行った。加えて、土地接収により旧村落から移動した移住者が移住先「字A」「字B」で作った地域集団による公民館活動、また土地返還後に新都心内に新たに誕生した「新A」「新B」地区の公民館活動(年中行事や現在の村落祭祀、元の住人とのつながりの有無など)を区長や公民館長への聞き取りを通じて調査し、隣り合う2地区での共有資源の取り扱いについて比較を行った。共有地を元手に法人化を図り商業地を誘致したA地区に対し、集落による共有地の所有権が失われたB地区では、かつて聖地であったが土地接収により埋め立てられた泉の再建を通じて、旧集落居住者の子孫らの繋がりを維持している。しかし近年、新A、B地区に新設された小学校に旧集落名を付ける活動を行い、各地区の歴史や聖地の伝承といった象徴的な資源を活用する方向に展開している。

報告者の研究対象地区における調査とともに、9月14日に沖縄大学で開催されたシンポジウム「沖縄における米軍基地・環境・社会運動」に参加し、沖縄各地で展開されている反基地、環境保全の活動について知見をえて、運動の意義や軍事環境問題の解決に向けた課題に関する議論を深めた。(文責:越智郁乃)

2013年9月(成定)

〈沖縄本島北部における米軍基地関連施設建設予定現場をめぐるフィールドワーク〉  2013年9月、沖縄本島の米軍基地関連施設建設予定現場である、辺野古地区と高江地区および周辺地域においてフィールドワークを行った。

1.辺野古地区

名護市辺野古の海岸にある米軍海兵隊施設との間に設置されているフェンスには、無数のリボンとともに「埋め立てさせない!For peace」「Here is our peace」「さよならオスプレイ 落ちる前にお帰り下さい」「Okianwans decide Okinawan Future」「埋め立てないで!」などと書かれた布地が何枚も張られていた。海兵隊施設との境界を作るフェンスの上に重ねられた、「平和」をめぐる様々な言葉や表現は、辺野古の海を前に、自然と「平和」との多様な連関を想起させながら、フェンスを、軍事基地と非軍事基地との境界を作るものとしてではなく、「平和」に関わる複数の意味を生み出す源泉として再位置付ける。剥がれても剥がされても次々と貼り付けられていく布地は、「平和」「反軍事主義」「反基地」などの運動に関わる多義的な言葉や表現を境界の空間において意味付・意義付し直している。

※写真:「海兵隊施設のフェンスとフェンスに張られた「平和」メッセージの布地」(撮影:成定洋子)

2.ジュゴンの見える丘

「ジュゴンの見える丘」は、嘉陽と天仁屋の間にある、ジュゴンが生息しているとされる一帯を見渡すことのできる丘である。今回、「ジュゴンの見える丘」を「ヘリ基地いらない二見以北十区の会」「北限のジュゴン調査チーム・ザン」のメンバーである浦島悦子氏にご案内頂いた。この海は、ジュゴンの藻場がある貴重な海域であり、「北限のジュゴン調査チーム・ザン」が、カヌーに乗って目視で、ジュゴンの藻の食み跡(ジュゴントレンチ)を調査し、ジュゴンの生態を明らかにしてきたところである。沖縄本島で人工海岸が増加するなか、白鳥が羽を広げたような自然海岸は希少化しており、貴重な自然を残す海域となっている。「北限のジュゴン調査チーム・ザン」では、「ジュゴンの見える丘」からの眺めを維持することは、ジュゴンの生態を守るだけでなく、人間の生きる環境を保全することでもあり、また「平和」を作っていくことでもあることをご教示頂いた。

※写真:「ジュゴンの見える丘」(撮影:成定洋子)

3.高江地区

東村・高江地区では、集落を囲い込むような形で、米軍のヘリパッドを六つ建設する工事が始まっており、2007年の7月から工事現場の入口で、工事を止めてもらうために、連日の座り込み活動が行われている。下記の写真のように、現在、座り込みの中心となっている工事現場入口前には、米軍人に向けて、米軍人の権利を英語で訴えかけるメッセージ・ボードが設置されており、米軍人と繋がろうとする活動も行われていた。また、このような米軍人とのつながりを見出そうとするような活動を包含した、座り込み活動には、映画『標的の村』(琉球朝日放送、2013年)で描かれたように、様々な人々が様々な形で関わっており、「環境運動」「平和運動」の重要な課題と可能性を示唆しているように思われた。(文責:成定洋子)

※写真:「工事現場入口前に設置された、米軍人に向けて書かれた米軍人のための権利に関するメッセージ・ボード」(撮影:成定洋子)

2013年6月(北村)

【写真2】那覇市における遺骨収集(2009年)
【写真3】不発弾処理に関する道路標識(2008年)
【写真4】米軍基地のフェンスに掲げられたメッセージ(2012年)

一般的に、戦場となった地域では、自然環境や生活環境が破壊されることにより、生活基盤が奪われ、社会関係資本が失われ、文化が破壊され、強制的に人の移動が促されるといった「軍事環境問題」が派生する。さらに、占領の長期化や軍事基地のプレゼンスによって、この問題は、「軍事・環境問題」(軍事関連の環境問題)としてだけではなく、「軍事環境・問題」(軍事環境がもたらす問題)としても立ち現れる。こうした急激な環境の変化に対し、社会・地域・個人は、それぞれの位相で何らかの現実的な対応(新たな環境への適応)を迫られるわけだが、筆者は、そのような社会的・文化的・心理的変化の具体相を研究対象としてきた。

具体的には、①戦争やその後の軍事占領の精神的後遺症・心理的影響、②戦後処理と開発との関係(遺骨収集、不発弾処理、戦後補償、土地問題等)、③戦争の記憶と社会運動との関係(平和運動、復帰運動、反基地運動等)、④戦争や軍事占領による文化変容(民俗、宗教、死者儀礼等)などの研究テーマが挙げられる。

これらの研究テーマに関連して、2013年6月21日から29日にかけて、沖縄島(本島)にてフィールドワークし、「戦争の精神的後遺症」と「戦後処理」という二つの研究主題に関する調査を重点的に行った。その内容は、第一に、戦争体験者ならびに戦後沖縄の精神保健を担った精神医療関係者への聞き取り調査、第二に、慰霊実践や戦後処理に関する調査(関係者への聞き取りを含む)、第三に、沖縄県立図書館、沖縄県公文書館、沖縄県庁などでの精神保健関連の公文書や統計資料の収集である。

以上の調査を踏まえ、本研究では、沖縄戦や軍事占領が人びとの心に及ぼした影響について検証した。特に重要なテーマとなったのが、沖縄戦による人的・社会関係資本の喪失、ならびに生活環境の軍事化に伴う社会の変化や精神的抑圧に対して、精神医療や精神保健と呼ばれる領域がどのように対応してきたのかという問題である。この問題に対して、戦時のトラウマ的な記憶との単純な因果関係で捉えることなく、社会環境との関わりのもとで、政治的・経済的な条件を考慮に入れながら検証を行った。その成果の一部は、後述のシンポジウム「沖縄戦〈後〉の社会とトラウマ」において発表した。(文責:北村 毅)