所長あいさつ
2025 年 4 月より人文科学研究所長を務めることになりました 森本 淳生 です。1949 年に発足した新制人文科学研究所の所長としては 33 代目となります。
人文科学研究所は「世界文化に関する人文科学の総合的研究」を目的として、常時 30 前後の共同研究班を組織し、人文学に関わる共同研究をリードしてきました。 研究班のあり方は時代とともに変化してきた部分もありますが、伝統的には国内外の研究者が集う研究会を隔週で開催し、 毎回 4 時間程度を費やし報告と議論を行うスタイルで、共通のテーマをめぐって班員が様々な観点から問題を掘り下げる営みを続けてきました。 これに加えて、2010 年度に「人文学諸領域の複合的共同研究国際拠点」として全国共同利用・共同研究拠点に認定された後は、公募による所外の研究者を班長とする 課題公募班(一般A班)、所員を班長とし班員を公募する班員公募班(B班)、所外の若手研究者を班長として公募する研究班(萌芽研究)も組織し、 研究者コミュニティに広く開かれた研究体制を築いています。 人文学の基礎研究を確かなものにする一方、グローバルな視角から各地域文化の生成発展や相互交渉を実証的かつ理論的に探究し、 地球社会の調和ある共存に資する学術的知見を提供することが、人文科学研究所の大きな目標です。
附属研究施設としては東アジア人文情報学研究センターを改組し、2023 年度から、中国古典籍・近現代資料・情報発信の三つを事業の柱とする人文情報学創新センターを発足させました。 長らく開催し好評を得ていた漢籍担当職員講習会では漢籍整理に必要な知識の教授や研究成果の発信に努めてきましたが、創新センターではこれを 「市民との協業」として発展的に継承し、中国古典籍のみならず、近現代日本の資料の収集・整理・分析にも鋭意取り組んでいます。 明治維新以降の日本の近代化は、西洋文物の積極的な受容を通して日本人の思考のあり方を大きく変え、政治・経済・制度・文化の各方面で社会を西洋化し劇的に変化させました。 そこには当然、ポジティヴな側面だけでなくネガティヴな側面も多々含まれます。 散逸の危機にある近現代資料を保存し研究することで、こうした日本社会と日本人のあり方の変遷を具体的に跡づけること、そのために資料の作成者、現場の当事者、 その時代を生きた人々との協業を行い人文学の研究者との「知の融合」を図ること ——創新センターが従来の中国古典籍研究に加えて新たに目指しているのは、そのようなことです。
人文科学研究所の所員は個人研究を実施する傍ら、以上のような共同研究を主宰し、複数の研究班に参加することを基本的な業務としていますが、それにとどまらず、大学院・学部教育にも 積極的に関わるとともに、新入生を対象とする少人数教育科目群ILASセミナーにも多くの授業を提供しています。 また、「人文研アカデミー」では毎年多数の充実した公開講座・講演会・シンポジウムを開催し、一般市民の方々に向けて最新の研究成果を発信してきました。 多種多様な情報が飛び交い、「フェイク・ニュース」が大きな問題となる現代社会においては、専門研究に裏打ちされた知見を現代の諸課題に沿うかたちで可能なかぎり 分かりやすく発信していくことが重要だと考えるからです。
昨今の大学をめぐる状況は、ともすれば人文学を不要とみなすことにつながりかねない危機的な様相を呈しています。 いわゆる「役に立つ」研究に巨額の予算が割り当てられ、返す刀で文系のみならず理系においても不要不急とみなされた分野が切り捨てられかねない傾向が顕著となってきました。 加えて人文学に関しては、インパクトファクターといった理系基準の評価軸が存在しないため、研究活動が適切に評価されない危険も存在します。 不安定さを増す世界情勢を見れば、軍事研究のウェートが増えていくことも十分に予想されるでしょう。 たしかに、人文学を研究しても、病気を治すことも優れたAIや兵器を開発することもできません。 しかし他方で、人間は科学技術研究が対象とする「物質」の次元だけで生きているのではなく、「意味」の次元でも生きています。 どれほど厳密で唯物論的な自然科学者であっても、自分の子供を愛するでしょうし、仮にこの子供が不慮の事故で亡くなるようなことがあれば、 その死をたんなる自然現象と見なすことはできず、「何故死ななければならないのか」と世の不条理を嘆くはずです。 「神が死んだ」近代以降の時代を生きる私たちはもはや超越を信じることはできず、人間も結局のところ「物質の空しい形態」にすぎないと理解していますが、 それでも「魂」や「人格」があるかのように行動しているのです。
人文学の視線が注がれるのは、物質的次元を包みこむこうした人間の「虚構的」次元であり、そこにおいてこそ歴史や人生の意味が蓄積し、 世界に対する種々の見方が開かれ、様々な物語が紡がれることになります。 史料に基づいて過去の歴史を問い直し、社会で無自覚に前提される思考の枠組みを解明し、現実とは異なる世界をめぐる夢想に目を向けること ——人文学とは、 自然科学の視野の外部に押しやられてしまうこうした人間的次元を考える営みです。 それは言いかえるなら、技術的有効性や経済合理性といった「直接的な」功利性に対して一旦距離を置き、急かされるように「進歩」が追い求められる科学技術の時間の流れに抗して 立ち止まることで、人類が取りうる様々な道筋の可能性を、歴史・思想・文学・芸術・人類学など多様な視点から考察することにほかなりません。 直接的な技術的効用からは遠く離れているとしても、人文学のこうした「間接的な知」こそが、真に豊かで幸福な社会の実現に不可欠であると私は考えます。 人文科学研究所がそのような目的に向かって、市民の方々との知の協業も踏まえながら進んでいけるよう、微力ながら務めていく所存です。
所長 森本 淳生
2025年 4月